目次
『時間論』の基本情報
書籍名:時間論 他二篇
著者名:九鬼周造
発行:岩波書店
発行年:2016年
『時間論』のキーワード
カテゴリ:哲学
キーワード:現象学的時間、形而上学的時間
『時間論』のレビュー:寄せては返す波のごとく
日本の伝統的な音楽を聴く機会は少なくなってしまったが、それでも宮中の行事などでは未だにあのシンプルで美しい音楽を聴くことができる。
実際に宮中行事に参加したことがない人でも、古文や歴史・音楽の授業で、縦笛の「オーーーン」という甲高くシンプルな音色を聴いた経験があるだろう。
宮中の音楽は極限までシンプルな構成になっていて、同じリズム・テンポが何度も何度も繰り返される。
オーーーン、オーーーーン、オーーーーーン……。
繰り返される音を幾度も聴いていると、時間が過去から未来へと進むのではなく、同じ現在から現在へぐるぐる回っているような不思議な感覚に見舞われる。この感覚が錯覚でないのだとすれば、日本の音楽の内部に宿る時間には、一体どんな構造があるのだろうか。
この音楽的時間の問題について形而上学・現象学の立場から鋭く考察したのが、20世紀日本における思想の巨人・九鬼周造である。
東京に生まれた九鬼は、東京大学・京都大学を経てヨーロッパに遊学し、実存主義的な立場から日本固有の文化・精神構造について革新的な分析を残した。
本稿『時間論』では、日本の伝統文化に内在する時間意識に対する九鬼独自の思想が展開されている。寄せては返す波のような循環的時間を宿らせる日本の伝統文化について、改めて考えてみることにしよう。
『時間論』の要旨・要約
本稿の目的は、日本の芸術の中に流れる(そして古来の日本人の意識に流れる)時間の根本的な構造を明らかにすることにある。
奥つ鳥/鴨着く島に/我がゐ寝し/妹は忘れじ/世のことごとに
という和歌に流れる時間について考えてみよう。
最初の句である「奥つ鳥」に、句の意味とは無関係に脚韻(i)が踏まれている。このような意味と脚韻との無関係な出会いを、「同時的偶然」と呼ぶ。
次の句の「鴨着く島に」以下でも、「奥つ鳥」と同様に、脚韻(i)が句の意味とは無関係に現れている。同時的偶然がこのように連続することを、「継起的偶然」と言う。
これらの継起的偶然では、脚韻iが5度連続して踏まれている。第1句から第5句に至るまで、時間の瞬間は過去から未来へ移ろいゆくが、全ての句は脚韻の “i”という音を共有し、 “i”の音へと回帰する。
過ぎ去った偶然がその出発点へと回帰するとき、この偶然のことを「回帰的偶然」と呼ぶのだが、「奥つ鳥」の歌の音は回帰的偶然を形成している。
継起的偶然が回帰的偶然になるとき、過去の音が現在へ、現在の音が未来へ、未来の音が現在へ、現在の音が過去へ流れる円環構造=永遠回帰が生まれる。
「鴨着く島に」の「に」の “i”の音によって、「奥つ鳥」の “i”の音が想起される。また「鴨着く島に」の “i”は、次の句「我がゐ寝し」の “i”へと向けられる。今この瞬間に聞いている音の中に、過去の音・未来の音が織り込まれ、現在の瞬間に普遍なる円環が形成される。
意識の中で、過去から現在、未来へと直線的に生じてくる時間=「現象学的時間」に対して、個々の現在の瞬間に形成される円環構造を「形而上学的時間」と呼ぶ。日本の芸術の中に流れる時間は、この「現象学的時間」と「形而上学的時間」が交わって成立していると九鬼は考えた。
時間の構造は図でイメージした方がわかりやすいので、参考までに九鬼の時間論を以下に図示した。適宜参照してほしい。
『時間論』への感想:フッサールの時間論との差異—現在の特権
フッサールの『内的時間意識の現象学』に関する記事(以下のリンクを参照)を読んでいただいた方は、この記事を読んで「フッサールの時間論みたいだな」と思ったかもしれない。
確かに九鬼の時間論はある程度フッサールの時間論に似ているが、本質的な部分ではかなり異なっている。そこで以下では、九鬼の時間論とフッサールの時間論との本質的な差異について検討してみたい。
フッサールの現象学的時間論の本懐を簡単にまとめると、以下のようになる。
「現在の知覚は、現在の瞬間において得られる印象だけによって成り立つわけではなく、過去の印象を包摂しており、かつ未来の印象へと差し向けられている」
要するに、現在という瞬間は、意識の中では単体で生じるものではなく、過去と未来を含みながら生じるものである、ということだ。この点では、フッサールの時間論と九鬼の時間論は似ている。
だが、フッサールはあくまで「現在」という点の特権性を確証して議論を進めている。フッサールが現在の瞬間を考える上で、過去と未来は従属的な存在にすぎない(このようなフッサールの考え方は、「直観主義」と言われる)。
これに対して、九鬼にとって現在という点は何ら特権性を持たない点である。現在における「我がゐ寝し」、過去における「奥つ鳥」、未来における「世のことごとに」—これらの句は、それぞれの脚韻 “i”を介して、現在の瞬間に還帰する。
そこでは、過去の音が現在になり、現在の音が未来になり、未来の音が過去になる。過去・現在・未来の音は、互いに区別されず、意識の中で溶け合っていく。
つまり、フッサールの時間論においては、現在という瞬間が特別視されていたが、九鬼の時間論では特別視されなくなっているということである。
どちらが良い悪いという問題ではない。両者の考え方の違いは—あえて極端に言えば—文化の違いだろう。独立した個人が周知の前提になっている近代ドイツの文化と、個人が集団において意味を持つ伝統的な日本の文化との間には、埋めがたい溝があったと推察される……。
『時間論』と関連の深い書籍
哲学における時間論について知りたい人向けのの書籍
- アリストテレス著:出隆・岩崎 允胤訳『アリストテレス全集3 自然学』、岩波書店、1968年
- ニーチェ著:氷上英廣訳『ツァラトゥストラはこう言った』上・下、岩波書店、1967年
- ハイデガー著:細谷貞雄訳『存在と時間』上・下、筑摩書房、1994年
- フッサール著:谷徹訳『内的時間意識の現象学』、筑摩書房、2016年
- ベルクソン著:中村文郎訳『時間と自由』、岩波書店、2001年
- レヴィナス著:熊野純彦訳『全体性と無限』上・下、岩波書店、2005-2006年
九鬼周造の他の作品を読んでみたい人向けの書籍
- 九鬼周造著『「いき」の構造』、岩波書店、2011年
- 九鬼周造著『偶然性の問題』、岩波書店、2012年
- 九鬼周造著『人間と実存』、岩波書店、2016年
- 菅野昭正著『九鬼周造随筆集』、岩波書店、1991年