【知識のいらない哲学入門】2:敬語から始める哲学

【知識のいらない哲学入門】2:敬語から始める哲学

はじめに

こんにちは。ライターのらりるれろです。突然ですが皆さん、日本語の敬語って不思議だなって思ったことあります?

先日、語学学習者交流サイトで知り合ったフランス人女性とチャットしているときに、「日本人って年が近い人との間でも初対面なら敬語を使うんだって?変だね」という趣旨の指摘をいただきました。ちなみにフランス人は、かなり年上の人や目上の人には敬語を使いますが、年が近い、もしくは自分より若い人には初対面でも「やあ!元気?」みたいなテンションで話すそうです。

考えてみれば確かに不思議な話です。なぜ私たちは年が近い人との間でも初対面の場合大抵は敬語を使うのでしょうか?敬語とは本来、敬意を払うべき人に用いる言語表現なのではないでしょうか?

そこで今回は、「なぜ日本人は初対面のとき、年が近くても敬語を使うのか」という問題から哲学を始めてみたいと思います!

敬語から始める哲学①:日本語の敬語の特徴

まずは、日本語の敬語の基本的な特徴を考えてみましょう。

入学したての大学生や、入社したての新社会人は、オリエンテーションの時はお互いに敬語を使って話すことが多いでしょう。それが、1ヶ月2ヶ月と同期たちと話しているうちに、何となく言葉遣いが柔らかくなって、タメ口を使うようになっていきます。年が近いからといって、初対面からタメ口ではなかなか話せないものです。

逆に、すごく年上の人と居酒屋で知り合って、その人とすぐに意気投合したというような場合では、その場でタメ口を使うようになるでしょう。

このように、日本語の敬語は予め使う相手が決まっているわけではなく、相手との情動的な関係性(親しい・親しくない)に応じて使用するか否かが決まっているのです。

敬語から始める哲学②:日本語の敬語とフランス語の敬語

日本語の敬語は動的に変化するのに対して、フランス語の敬語は静的に固定されています。フランス人が話し相手に敬語を使う場合、その相手にはどんな場合でも敬語を使いますが、日本人はそうではありません。話し相手と親しくなればタメ口になりますし、疎遠になれば敬語になりますよね。

敬語を使うかどうかが変化するということは、相手との関係性の土台が常に変化しうるということを意味しています。逆に敬語を使うかどうかが定まっているということは、その相手との関係性の土台は常に安定しているということになります。

当たり前じゃん、さっきから何の話をしているんだお前は、と思っている読者の方もいらっしゃるでしょうが、この当たり前の事実にこそ哲学的な問いを導くヒントがあると私は考えています。どういうことでしょうか。

敬語から始める哲学③:日本人は「私」を持たない⁉︎

誰に対してどのような言語表現を用いてコミュニケーションを取ればいいかが予め決まっているということは、コミュニケーションの中心点となる「私」が安定しているということを意味しています。どんな場合であれ、自分がなすべき振る舞いが決まっているのは、その振る舞いをなす「私」がはっきりと確立されているからであるはずだからです。

ところが日本語の場合、他人に対してとるべき言語表現は状況に応じて常に変化します。「私」は、それぞれの状況に応じてとるべき行動を自ら選択しなければなりません。では、その選択が正しいと証明してくれる根拠はどこにあるのでしょうか?

厳密に言えば、その根拠はどこにもありません。強いて言えば私たちが「常識」や「空気」・「雰囲気」と呼ぶものがその根拠としてしばしば挙げられますが、「常識」・「空気」・「雰囲気」ほど中身のない日本語もありませんよね。私たちの言語的な活動は、このような不安定な地盤の上に成り立っているのです

「私」の振る舞いが実は無根拠で曖昧であるとするならば、その振る舞いをなす「私」もまた無根拠で曖昧なのではないでしょうか。「なんとなく」という空気に支配された私たちの社会の上に、果たして確立された「私」など存在できるのでしょうか?私には、甚だ疑問です。

というわけで、「なぜ日本人は初対面のとき、年が近くても敬語を使うのか」という問題の根源を探ることによって、この問題から「私たちは確立された『私』を持たないのではないか」という哲学としての問いを導くことができました。

おわりに

いかがでしたか?この記事では、敬語というありふれた言語表現からスタートして、日本人の心性の根源を突く哲学的な問いを導出しました。

今回の議論は、

  1. 日本語の敬語の使い方をフランス語の敬語の使い方と比べて分析する
  2. 日本語の言語表現の曖昧さから、無根拠な行動を取らざるを得ない日本人の「私」の脆弱性を指摘する

という2つのステップで展開しました。2つ目のステップはやや理解しにくいかもしれませんが、自我が確立されているならば、自我が為すべきことが確たる地盤のもとに決まっているはずです。逆に、自我が為すべきことが決まっていないならば、自我は確立されていないことになります。

もちろん、「日本人には『私』がない」というのもあくまで「問い」に過ぎません。厳密に「私」を持った人間など本当にいるのか、と反論することもできるでしょう。この記事を読んだ皆さんが、各々の関心にしたがって自由に思索を膨らませていってもらえれば幸いです。それでは!


1件のコメント

  1. ピンバック: 【知識のいらない哲学入門】1:ゲームから始める哲学 | OLUS

コメントを残す