シミュラークルについてわかりやすく解説〜模造、生産、シミュレーション〜

シミュラークルについてわかりやすく解説〜模造、生産、シミュレーション〜

はじめに:シミュラークル——DXへの抵抗

私たちは、全てを共有可能なものにしようとするオープン化の時代に生きている。

共通化、オープン化。それらは基本的に(絶対的に)善いものとして規定され、大きなうねりを形成している(デジタルトランスフォーメーションという言葉が企業の経営層の間で流行し、その内実を知らないまま何となくそれっぽいことをやろうとしている……)。

全てをオープン化し、共有可能にすること。これはしかし、一種の暴力である。開示されたものが正しく、開示できないものはよろしくないという図式の中に人を閉じ込めてしまう。

この問題の根源はどこにあるのか。その答えを社会史的視点から考察するために、ここではジャン=ボードリヤールのシミュラークル(記号・モデル)論を整理する。

なぜシミュラークルについての考察が必要なのか

ある社会的課題の根源を探るとき、その探求に歴史的視座が入り込むのは必然である。ではなぜ、ここでシミュラークルをテーマとした歴史に着眼する必要があるのか。

本稿の出発点となった問題は、私たちのコミュニケーションの全てがオープン化され、共有可能になっていることだった。

コミュニケーションの全てがオープンになるとき、その発生源にあったはずの文脈、背景は消却され、言語などのアウトプットだけが流通するようになる。もちろんリテラシーのある読み手は、そのアウトプットの背後にある現実を探ろうとするだろうが、アウトプットの量が多くなればなるほどその探求は困難になる。

結果、大多数の人にとって、コミュニケーションのアウトプットは文脈を欠いた記号——ボードリヤール曰く「シミュレーションのシミュラークル」——となる。

さて、これは一体どんな事態なのか。文脈を欠いたコミュニケーションとは具体的にはどんなものであるのか。シミュレーションのシミュラークルが跋扈する状況はどのように発生しているのか。

その答えを探すために、ボードリヤールの『象徴交換と死』(原題 “L’échange symbolique et la mort”、ここでは筑摩書房から出版されている今村・塚原訳(1992年)を参照する)におけるシミュラークルについての社会史的考察を整理してみたい。

3つのシミュラークル

シミュラークルは、社会的な価値法則の変化に追随する形で、以下の3種類に分けられるとボードリヤールは述べている。

  1. 模造のシミュラークル:自然的価値法則に対応(ルネッサンス期〜産業革命前)
  2. 生産のシミュラークル:商品の価値法則に対応(産業革命)
  3. シミュレーションのシミュラークル:構造的価値法則に対応(産業革命以後〜現在)

それぞれの具体的な内容について、以下で解説する。

模造のシミュラークル

『象徴交換と死』第二部第二章「漆喰の天使」は、こんな一節から始まっている。

模造(それと同時に流行=モード)はルネッサンスとともに、ブルジョワ的秩序による封建的秩序の解体と、差異表示記号のレベルでの公然たる競争の開始とともに生まれた(p119)。

洋の東西を問わず、中世と呼ばれる時代において、社会的階層はほぼ固定的であった。王の息子は自動的に王となるので、「王」という記号は直ちにその王自身もしくは王の家系を意味していた。中世を象徴する封建的社会の中では、その意味の秩序が自明に受け入れられていたのである。

この時代において、記号はほぼ完全に現実と一対一対応していた。「王」という称号・記号は現実の王を指すし、「農民」は普通に領主に使える農民を指していた。この記号の秩序は固定的であり、間違っても「王」が農民を意味しうることはなかったという点は、改めて強調しておきたい。

この固定的な社会階層は、ルネッサンス期に入るとかなり流動的になった。ボードリヤールの言葉を借りれば、その変化は以下のように言い表せる。

かつては地位の秩序の特徴であった記号の同一階級内だけでの流通に、競争的民主主義がとってかわる。それと同時に、威信表示記号/価値の階級間移動が行われ、その必然的結果として模造の時代が始まる(p120)。

封建社会が崩れた後、例えば市民が貴族のように振る舞うことができるようになった。階級の固定が、前時代に比べて緩やかになったからである。

とはいえ普通の中産階級たる市民は、貴族の振る舞いを生来的に知っているわけではない。それでも貴族として振る舞う必要があるとき、市民はひとまず貴族の外面を真似ようとした。この瞬間、本物(貴族)と、その模造との対立が生まれた。

中世において、貴族的な振る舞い(という記号、価値)は現実に存在する貴族と一対一に対応していた。それがルネッサンスに入ると、貴族的振る舞いに対応する現実が複数存在するようになった。

幸いなことに(?)、ルネッサンス期においては、貴族的な振る舞いの真贋はきちんと見分けられていたらしい。それゆえ、厳密にはまだ記号とその内容の一対一対応は成り立っていた(本物の貴族的振る舞いが貴族に対応し、偽物の貴族的振る舞いが市民に対応していた)。

しかし、この真贋 ーつまりオリジナルとコピーの区別 ーは、産業革命期に入ると失われることになる。

生産のシミュラークル

産業革命を支えた技術革新は、生産に対する考え方を根本から変えてしまった。機械の浸透によって、「2個あるいはn個の同一のモノ・記号が大量生産される」(p130)時代が到来したのである。

模造のシミュラークルと違って、ここで生産されるシミュラークルには「オリジナル」が存在しない。オリジナルとの類似・アナロジーによって規定されるのではなく、単純に機能や仕組みによって規定される。だからこそ、無限に複製することができる__この世に2つと同じ存在はないが、同じ機能を持つ存在は機械によって制作可能だからである。

もちろん、機械で制作されるモノにも個々に微細な違いはある。しかし、その違いは最早何の意味も持たなくなっていた。制作されるモノのアイデンティティはその機能であって、外見ではなかったからである。2つのモノの機能が同じならそれは「同じ」と判断されていたわけである(今日に至るまで、産業におけるこの考え方は基本的には変わっていない)。

さらに言えば、シミュラークル化されるのは生産物だけではない。機械化された工場の中では、生産主体たる人間すらシミュラークルになる

かつて生産は、知性をもった人間の特権だと考えられていた。人間の意図に従って、何かを生産する。人間が主人で、生産物が従者になる。それが当たり前だった。

この主従関係を、産業革命は根底から破壊した。機械化に伴う工場での大規模な生産プロセスの中では、人間も生産物も、そのプロセスに随伴する従者となったのである。

決められた生産ライン・設備の中で、一定の技能=機能をもった人間が一つの部品として配備され、決められた動作をする。その結果として、想定通りの生産物が出力される。ボードリヤールが言うところの「死んだ労働」の誕生である。生産物だけでなく、生産するはずの人間すら、無限に複製可能な記号=生産のシミュラークルになる……。

もっとも、この大量生産される複製の時代は一時的なものに過ぎなかった。モノが複製可能であるという認識が確立した瞬間から、生産は「モデル」と呼ばれる増殖の核を起点として行われるようになった。

シミュレーションのシミュラークル

第一の領域の記号「模造のシミュラークル」は、その記号の作成者がオリジナルに至らんとする目的を明確に有していた。意味作用の主は他ならぬ私たち人間であり、人間の意思が模造の記号を作っていた。

ところが、第二の領域の記号「生産のシミュラークル」に入ると事情は一変した。人間は意味作用の根源としての地位を、機械化されたプロセスに奪われてしまったのである。

機械化されたプロセスは、無限に同じ商品=シミュラークルとなった商品を無限にアウトプットし続ける。そのプロセスの中で、かつて生産主体だった人間もまた、プロセスの歯車としてシミュラークルになる。

このプロセスによる支配が一般化されると、今度はプロセスを生産する新たな主体が現れた。それがコードである。

例えば、工場の生産過程を想像してみてほしい。工場における生産の主体は、ベルトコンベアを基軸とする生産ラインにあるように見える(ラインが止まると生産が自動的にストップする)。

ところが実際には、生産ラインは、生産シミュレーションモデルに形を与えたものに過ぎない。モデルの中で、将来的に可能な生産が予測され、その予測を反映して生産ラインが構築され、その歯車として機器や人間が配備される。

生産の主体がモデルになるとき、生産はいよいよ非人間的(人間疎外的)になる
「人々は理想的発展に基づく合目的的過程ではなくて、モデルによる発生の過程に巻き込まれ、予言ではなくて『コードの書き込み』の権利を持つようになった」というわけである(p143)。

人間が自らの理想を抱き、その実現を目的として生産を行うのではなく、生産モデルの中に必要な情報を入力して、その出力を受け取るようになる。ここには人間による(厳密な意味での)生産は存在せず、人間はモデルがアウトプットしたモノの受け取り手に他ならなくなる。

モデルによって生産されるモノも、情報を入力して必要な情報を受け取る人間も、無限に複製が可能な記号であるに過ぎない(モノにせよ人間にせよ、モデルによる生産プロセスの歯車の一つだからである)。モデルによって、あらゆる存在がシミュラークルになる。「シミュレーション(モデル)のシミュラークル」の時代が、ここに誕生した。

シミュレーションはどのようにシミュラークルを生産しているか

ここまで、「模造」「生産」「シミュレーション」という3つのシミュラークルについて概観してきた。

ボードリヤールの分析によれば、現代はシミュレーションのシミュラークルの時代にある。シミュレーション(モデル)によるシミュラークル(記号)の終わりなき生産プロセスについては先ほど述べた通りである。では、シミュレーションは具体的にはどのようにシミュラークルを生産しているのか

「シミュレーションのシミュラークル」の時代をより具体的にイメージするために、以下では現代の政治の図式を例に、シミュラークルの生産をより深く検討する。

現代におけるマス=コミュニケーション(政治や、文化的な流行、テレビニュースなど)は、問いと答えの繰り返しに還元されている。

少数のコミュニケーションと違って、マス=コミュニケーションは、誰にでも理解できる単純さを必要とする。コミュニケーションを担う個々人の数が多過ぎて、それぞれの背景事情まで考慮していたら、意見を収集して整理できなくなる。それゆえ、多数対多数でやりとりする際には、内容をかなり抽象化・単純化せざるを得なくなる。

このマス=コミュニケーションの最たる例が国民投票である。「我が国イギリスはEUから離脱すべきか」。極めて単純化された問いに対して、求められている答えも極めて単純化される。YESかNOか。それだけである。

多数対多数の煩雑なやりとりをできる限り単純化するために、問いを立てる側は予め答えを用意しておく。一番わかりやすいのはYES/NOだが、その二項対立ができないとしても、選択肢は用意しておくものである。「この中から選んでください。簡単でしょ?」というわけだ。

そうして得られた答えを踏まえて、また別の問いを(答えを予め用意した上で)提示する。この問い→答え→問いのプロセスを延々と繰り返すことによって、表面的には民主主義的に見える政治(国民投票による政治的意思決定)が実現されている。

一見して市民主体で進められるように見えるこの国民投票の制度は、しかし実際のところ政府主体で、市民を隷属している

答えを予め用意している以上、市民はその答えの中から選ぶことを強制されている。例えばEU脱退についてYES/NOを訊かれたときに、ある市民が「こういう条件ならYESだが、別のこういう条件ならNOだ」と考えたとしても、その意見は棄却されるしかないのである。マス=コミュニケーションの中では、思考の複雑な背景は考慮されず、その表層部分だけ——YESかNOだけ——が実効的な意味を持つ……。

整理しよう。国民投票において、その政治的決定の主体となるのは国民ではなく問いと答えを繰り返すモデル(シミュレーション)である。

投票という体をとって何らかの政治的問題が提起されるとき、そこには既に答えの選択肢が用意されている。投票を行う国民は、その問題について自分から解答を提示するのではなく、用意された答えから選びとるという操作を強いられる。

国民投票が行われるとき、現実の全てがシミュラークル(記号)になっている。問いと答え、さらに答えを選択する国民さえ、「選択肢の中から〇〇という答えを選ぶ人」として、類型化された記号になる。

はるか昔、中世の厳格な階級社会が崩壊した後に到来したのは、私たちの主体としての自由ではなかった。皮肉にも、表向き自由になったこの世の中は、主体(そして意思)を機械的なシミュレーションに隷属させる社会となってしまったのである。

終わりに:シミュレーションのシミュラークルの時代を生きるために

以上、ボードリヤールのシミュラークル論を(かなり粗くはあるものの)整理した。改めてシンプルに要約すると、ボードリヤールのシミュラークル論(模造の時代からシミュレーションの時代に至るまでの変化)は以下の通りになる。

  1. かつて人間は記号の生産主体だったが
  2. 産業革命を機に生産プロセスにその地位から転落し、
  3. 人間は、問いから答えを産出するモデル=シミュレーションがアウトプットした「意味」の受け取り手に過ぎなくなった

こう書くと悲観的に見えるが、基本的に現代社会は③の状況を非常に肯定的に受け止めている。冒頭で触れた「DX(デジタルトランスフォーメーション)」の潮流は、まさに③を絶対善とする思想に裏打ちされている。

あらゆるコミュニケーション(人-人、人-モノ、モノ-モノ)を、標準化されたシミュレーションモデルを基軸に動かすことによって、やりとりするデータをあまねく共有する。共有されたデータをAI(という計算処理モデル)によって分析し、価値のある形にする。価値が付与されたデータを実生活の現場に還元し、生活体験の質を向上させる。

こういう(よくある)DXのプロセスは、データを生み出すシミュレーションモデルに至上の価値を置いており、そのモデルが産出するデータによって駆動している。DXのプロセスの中で人間はただの一アクターに過ぎない。あくまで生産の中心はシミュレーションにあり、人間はそのシミュレーションの結果に即して動くことが期待されることになる。

確かに、シミュレーションの結果に即して動くことはラクである。しかも、その結果に真面目に従っていればある一定以上の水準の生活が送れることも「ある程度」保証されている。

ただしその生活での幸福は、生活の全てを他者から与えられることによって成立している。与えられた幸福が、自分が本当に望むものである保証はない。むしろ、多くの場合、両者は決定的に食い違っている。

その食い違いを埋め合わせたいと願うのであれば、私たちはこのシミュレーションモデルを批判的に見る必要がある。私たちは普段何を所与のものとして受け取っているのか。その所与はどのように生産されているのか。なぜ、どこで自分の理想と食い違うのか。まずはそんな疑問を持つことから始めなければならない。

シミュラークルについて詳しく知りたい人のための参考文献

  • 『象徴交換と死』(ジャン・ボードリヤール著、今村仁司・塚原史訳、筑摩書房、1992年)
    • この記事のシミュラークル論は基本的に本著に依拠している。かなり長いので、シミュラークル論の要点だけ知りたい人は第一部と第二部を優先して読むと良い。
  • 『シミュラークルとシミュレーション』(ジャン・ボードリヤール著、竹原あき子訳、法政大学出版局、2008年)
    • 『象徴交換と死』とは違って、現代の消費社会に対する批評になっている。次の『消費社会の神話と構造』と併せて読んでほしい。
  • 『消費社会の神話と構造』(ジャン・ボードリヤール著、今村仁志訳、筑摩書房、2015年)
  • 『ソシュールのアナグラム予想——その正しさが立証されるまで』(山中桂一著、ひつじ書房、2022年)
    • ボードリヤールはしばしばソシュールのアナグラム論を参照している。本書はこのアナグラム論の入門書であるので、ソシュールに詳しくない人は参考にしてみてほしい。
  • 『贈与論』(マルセル・モース著、吉田禎吾・江川純一訳、筑摩書房、2009年)
    • この記事ではあまり触れなかったが、ボードリヤールの「象徴交換」という概念は、20世紀最高の文化人類学者の一人であるモースの贈与論に依拠している部分が大きい。シミュラークル論を読解する補助として、本書もぜひ読んでみてほしい。

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