存在論的美学へ向けて|その概要からおすすめ哲学書まで

存在論的美学へ向けて|その概要からおすすめ哲学書まで

存在論としての美学

存在論的美学とは、文字通り存在論としての美学である。

通常、「美しさ」は特定の存在(ハイデガー的には存在者。以下の記事参照)に対して用いられる形容詞である。

特定の存在を形容する「美しさ」を論じるとき、その議論のテーマは「存在的美学」と呼ばれるだろう。存在における美しさを論じているからである。

このような一般的な美学(存在的美学)に対して、哲学には「存在論的美学」と呼ばれるジャンルがある。

存在論的美学は、存在的美学とは違って特定の存在の美しさを扱わない。

特定の存在について論じない代わりに、「存在はなぜ・いかにして存在しているのか」という存在論的な問いを、美学の問いとして考えるのが存在論的美学である。

つまり、存在論的美学にとって美学とは存在論に他ならない。では、なぜ美学が存在論になるのか。この問いに答えるために、まずは美学と存在論、それぞれの目的について考えてみよう。

存在論としての美学①:美学の目的

美学の目的は、もちろん「美しさとは何か」を知ることにある。美しさとは何か。それは絶対的で完全な何かである。

人が美しさを感じるとき、美しさは一切の推論(理由づけ)なく直観されている。仮に美しさに理由があるとしても、その理由は美しさを感じ取った後に探究されるものに過ぎない。

従って美しさは、他の一切を必要としない絶対的で完全な何かであると言える。

以上から、美学の対象は絶対性・完全性としての美しさになる。

存在論としての美学②:存在論の目的

今度は存在論の目的を考えてみよう。

存在論は、存在者が存在する理由や必然性について思索するが、存在の根源(存在の理由や、必然性)には何かしらの絶対性・完全性がなければならない

デカルトは、疑っている我の存在は疑い得ないと言って、「我」の存在を確証した。存在を確証できる存在者は「我」だけではないかもしれないが、確たる存在者が全く存在しなければ、そもそもこの世界自体が存在し得ない。

ゆえに、その存在を確証できる存在者はどこかに存在する。存在論の目的は、真に実在するこの存在者が、なぜ・いかにして存在するかを考えることにある。言い換えれば、存在論は絶対的で完全な存在者についての議論であると言える。

存在論も、美学と同じように絶対性・完全性を希求しているのである。

以上から、美学と存在論が、それぞれの究極的な目的において一致していることがわかった。両者はともに、絶対性・完全性を探究している。

違いがあるとすれば、美学が絶対性・完全性を「美しさ」と捉えるのに対して、存在論は絶対性・完全性を「真なる存在」とみなしている点だけである。

ゆえに美学は存在論になり、存在論は美学になる

存在論的美学の必要性

ここまでで簡単に存在論的美学の概要を説明してきた。以下では、存在論的美学の必要性について述べる。

美学は、主に芸術を資料として展開されているが、現代ほど芸術が軽んじられる時代はなかっただろう。少なくとも、人間にとって必須な文化として芸術を捉えている人は少数になってきている

現代における芸術の軽視は、おそらく芸術が高尚なものとみなされている傾向に起因している。

芸術とは難しいものであり、普通に生きている自分には関係ないものだ。そう考える人たちが芸術を必須な文化とみなすのは難しいだろう。

この「芸術=高尚で難解」という図式の背後にあるのが、特定の存在者についての美しさを論じる「存在的美学」である

ある芸術作品が「美しい」と論じれているのを耳にする。しかし自分は全くそう思えない。なぜこの芸術作品が美しいのかわからない。芸術はわからない。美学は難解だ……。

このように芸術の難解さを嘆く人は、「美しい」という単語が指し示す対象を見誤っている可能性がある。「美しい」のは、その芸術作品自体ではなく、その芸術作品から透けて見える絶対性・完全性だとすればどうだろうか?

芸術が体現する絶対性・完全性が、この世の存在の根源にあるものだとすれば—つまり、自らの存在の根源には「美しさ」としての絶対性・完全性があるとすれば—どうだろうか?

美学が存在論であるとすれば、難解な芸術を自分から遠ざけることはできなくなるはずである。というのも、その芸術が表現しているのは、自分自身の存在の根源に他ならないのだから。

従って、存在論的美学を確立することは、人間の存在にとって必須の文化としての芸術の地位を復権させ、芸術をあらゆる人間存在の基礎に据える上で重要な契機となると言える。

存在論的美学を考察するためのおすすめ哲学書

ここまでの議論では、存在論的美学の概要を説明しその重要性を確認してきた。では、存在論的美学はいかにして確立しうるのだろうか。

美学を存在論として扱った哲学者とその著作は、概ね以下のようにまとめられる(ただし、重要度の極めて高い哲学者・著作に限って紹介する)。

  • アリストテレス:『詩学』
  • カント:『判断力批判』
  • シェリング:『芸術の哲学』
  • ヘーゲル:『美学講義』
  • ハイデガー:『芸術作品の根源』

「存在者」と「存在」の差異が認められた現代における存在論的美学の出発点は、当然ハイデガーにあるので、『芸術作品の根源』の重要度はこのリストの中でも突出して高い。

ここに挙げた以外にも、以下のような論者の著作は存在論的美学を捉える上で非常に重要になる。

  • ベンヤミン:『複製技術時代の芸術作品』
  • バタイユ:『エロティシズム』
  • バウムガルテン:『美学』
  • ブランショ:『文学空間』

さらに、ハイデガーやベンヤミンから影響を受けた哲学者のアガンベン(『裸性』など)、バタイユやブランショから思想を受け継いだペルニオーラ(『無機的なもののセックス・アピール』など)も、存在論的美学に関わる論者として挙げておくべきだろう(アガンベン・ペルにオーラについては以下の記事を参照)。

存在論的美学は、まだ未開拓の部分が多い分野である(試しにググってみると、その情報量の少なさに驚かされるだろう)。

したがって存在論的美学を確立するためには、上で取り上げたような重要な哲学者の著作を丹念に分析し、これらの著作による研究成果とその限界を見極めなければならない。

そこでこのWebサイトでは、今後の存在論的美学の発展を助けるために、初学者へ向けて存在論的美学に関する先行研究を紹介していきたいと思う。更新頻度はゆっくりになるかもしれないが、気長に待っていただければ幸いである。

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