『美学講義』(ヘーゲル)要旨・要約、感想とレビュー

『美学講義』(ヘーゲル)要旨・要約、感想とレビュー

『美学講義』の基本情報

書籍名:美学講義
著者名:ヘーゲル
翻訳者名:寄川条路・石川伊織・小川真人・瀧本有香
発行:法政大学出版局
発行年:2017年

『美学講義』のキーワード

カテゴリ:哲学、美学
キーワード:存在論的美学、内容、形式、弁証法

『美学講義』のレビュー

この記事で取り上げる『美学講義』は、「存在論的美学」という哲学の一分野を開拓するための重要なテクストである。
以下の記事で私は、存在論的美学のあらましについて簡単に述べた。芸術の地位を復興するために、「存在的美学」(特定の存在を論じる美学)から「存在論的美学」へシフトする必要があるのだ、と。

しかし、言うは易し行うは難しである。一体どうすれば、存在論に「美しい」という形容詞をつけられるのか。

この難問を解く上で、ヘーゲルの『美学講義』は非常に有効である。

ヘーゲルは、私たち人間を含む自然的存在の生成過程を、芸術の構成過程として捉えている。ヘーゲルにしてみれば、芸術を論じることは存在の生成過程を論じることになる。すなわち、彼にとって美学とはそのまま存在論なのである(存在論的美学である!)。

そこでこの記事では、存在論的美学における重要な参考資料として『美学講義』を取り上げ、その要約や感想を提示する。2017年に法政大学出版局から新しい邦訳が出版されているので、ドイツ語原典と合わせてそちら(邦訳)も参照していただきたい。

『美学講義』の要旨・要約

ヘーゲルは、美学=芸術の哲学について、芸術一般に関わる議論を展開したあと、個々の芸術(油絵、音楽、彫刻など)に関する議論を述べている。

この記事では、近代美学の金字塔として高い価値を持つ『美学講義』の芸術一般に関する議論をまとめて紹介する。

芸術とは自然の模倣であり、芸術の究極的な目的は、自分の感情や感性を手がかりとして自分自身を知ることにある(同じ目的を持つ文化的活動として宗教と哲学がある)。

自分自身を知るとはどういうことか。

自分自身と言われる「自分」は精神であり、精神は端的に思考である(ヘーゲルは精神と感性を対置している)。

だとすれば、精神である「自分」は思考する者であると同時に思考されるモノでもある

思考する者—実在・自然・内容—としての自分と、思考されるモノ—概念・形式—としての自分。両者を統一するのがであり、芸術である

実在・自然・内容としての自分と、概念・形式としての自分は、いかにして統一されるのか。

内容と形式の統一は、芸術の各部分がそれ自体生命感を持って感じられる時に果たされる。

各部分が生き生きとして感じられるとき、それぞれの部分は1つの全体として機能している。各部分は、作品全体の調和を維持する関係性という形式に嵌め込まれていながら、それ自体が1つの内容になっている。

全体を調和させる形式に則りながら、それ自体としても内容を持つ。そこに、内容と形式の統一としての美が現れる。

『美学講義』への感想

ヘーゲルは、内容と形式の一致は、芸術作品の各部分がそれ自体として生命を持つ時に生まれると論じていたが、内容と形式の一致と作品各部の生命感との間にはどんな関係があるのだろうか

この問題(内容と形式の一致と各部分の生命感との間の関係)を考えるために、芸術の本懐を思い出してみよう。

ヘーゲルによれば、芸術とは自然の模倣だった。ということは、最良の芸術はもっとも自然を良く模倣した作品ということになる。

ヘーゲル哲学最大の特徴は、自然のあり方を弁証法という知的精神のあり方として捉えた点にある。

弁証法とは、簡単にいうとあるモノAと、Aに対立するBがあり、AとBの対立を包括する新たな存在Cが生成される動的なプロセスを指す言葉である。Aを「正」、Bを「反」、Cを「合」と呼ぶ。

生成された存在Cは、Cに対立するDと統合される。CとD(正と反)の統合によって、Eという新たな存在(合)が生成される。自然の発展は、この正→反→合の繰り返しによって説明されるとヘーゲルは主張した。

内容と形式は対立しているので、内容を「正」、形式を「反」と捉えることができる(逆でも可)。

芸術は、内容と形式を統合する。つまり芸術は、「正」と「反」を包括して「合」を生成するのである。

「合」まで生成されれば、そこから自然の発展が始まる。芸術が表現した弁証法から、自然の発展が駆動していく。このとき、芸術は自然の完全な模倣となり、自然の一部として生命を帯びるのである。

ここまで、内容と形式の一致と生命性の関係について解釈してきた。

内容と形式が統合されるとき、そこから自然の弁証法が始まる。では、内容と形式はいかにして統合されるのか。

この問題(いかにして内容と形式が統合されるか?)に答えるのは難しい。というのも、カントが『判断力批判』で述べている通り、内容と形式を統合するのは天才の感性であり、天才の感性を説明できるのは天才だけだからである。

残念ながら、カントもヘーゲルも芸術の天才ではない(もちろん私も)。私を含む凡才は、内容と形式の統合を果たした作品について特徴を論じることはできても、その統合のプロセスについては沈黙を貫かざるを得ないのである……。

『美学講義』と関連の深い書籍

  • アガンベン著:岡田温司・栗原俊秀訳『裸性』平凡社、2012年。
  • アリストテレス著:三浦洋訳『詩学』光文社、2019年。
  • カント著:篠田英雄訳『判断力批判』(上・下)岩波書店、1964年。
  • バウムガルテン著:松尾大訳『美学』講談社、2016年。
  • ハイデガー著:関口浩訳『芸術作品の根源』平凡社、2008年。
  • バタイユ著:酒井健訳『エロティシズム』筑摩書房、2004年。
  • ペルニオーラ著:岡田温司・鯖江秀樹・蘆田裕志訳『無機的なもののセックス・アピール』平凡社、2012年。
  • ベンヤミン著:佐々木基一訳『複製技術時代の芸術作品』晶文社、1999年。

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