『視覚新論(バークリ)』要旨・要約、感想とレビュー

『視覚新論(バークリ)』要旨・要約、感想とレビュー

『視覚新論』の基本情報

書籍名:視覚新論
著者名:ジョージ=バークリ
翻訳者:下條信輔他2人
発行:勁草書房
発行年:1990年

『視覚新論』のキーワード

カテゴリ:哲学
キーワード:Esse is percipi.

『視覚新論』のレビュー

存在とは何か。

本サイトでも度々扱っているこの問題に対して、『視覚新論』の著者バークリは

“Esse is percipi” (存在するものは知覚されるものである)

と答えた。

「あらゆる理性は経験から導かれる」とするイギリス経験論の代表格であるバークリ は、存在の可能性を知覚経験の可能性に絞り、徹底して人間の知覚を分析した。

私たちは何を見ているのか、何を触っているのか、何を聞いているのか、何を嗅いでいるのか……。

人間の知覚の根源を探るとき、知覚されるものとしての存在の真実が透けて見える——歴史を経ても色褪せないバークリの思想の世界に、少しだけ「触れて」みることにしよう。

『視覚新論』の要旨・要約

『視覚新論』におけるバークリの立場は、 “Esse is percipi”(存在するものは知覚されるものである)という命題に要約される。

このバークリの立場は、人間が直接に経験可能な対象だけが存在するものであるとする経験論的な立場である。したがって、バークリにとって存在の本質は私たちの知覚の本質にある

そこで以下では、バークリの知覚に対する捉え方を4つの視点から整理し、バークリにとっての「存在」—私たちに知覚される「存在」—の姿を考察する。

『視覚新論』の要旨・要約①:距離の知覚

バークリは、『視覚新論』第2節から第51節(1節あたりの文章が短いので、相対的に節数が多くなる)で、人間の距離の知覚の仕方について論述している。

私たちの知覚にとって距離は絶対的な指標ではない(ここでいう距離は、客観的に計測される距離とは違って、主観的に知覚される距離である)。

ではどのように距離が知覚されているかというと、私たちは主に以下のような方法で距離を知覚している。

  1. 両眼の回転
  2. 眼を対象に近づけたり遠ざけたりすること
  3. 眼球の筋肉を緊張させること
  4. 対象の大きさを認識すること

以上のような距離の認識方法は、いずれも触覚を媒介した方法である。それゆえ、距離の知覚は、基本的に触覚を通じて行っていると結論づけられる。

『視覚新論』の要旨・要約②:大きさの知覚

事物の大きさを、私たちは自らの視覚によって捉えていると信じている。

しかし実際のところ、視覚が捉えられる事物の大きさは可変的で相対的である。私たちにとって実在的な「大きさ」の感覚は、むしろ触覚によるところが大きい。

事物の触れられ方の違いを、私たちは原初的な大きさの感覚として受け取っている

『視覚新論』の要旨・要約③:位置の知覚

位置の知覚においても、私たちは触覚を利用している

というのも、私たちは自分の眼や頭を前後左右に動かしながら、対象との距離感を測っているからである。

『視覚新論』の要旨・要約④:視覚と触覚との関係

視覚と触覚は、働きとして独立している。しかし、事物を捉えるときには、視覚と触覚は協働している。この協働は、視覚によって捉えられる対象と、触覚によって捉えられる対象が観念のレベルで同一になることによって可能になっている。

『視覚新論』への感想:触覚とリアリティ

『視覚新論』の中でバークリは視覚と触覚との関係について論じていたが、ここで試しに触覚が先天的にない場合の知覚認識について考えたい。

触覚が先天的にない人間は、事物に触れるという感覚を得られない。例えば、物理的に手とコップが接触していたとしても、本人からすれば「手とコップが当たっている」と視覚的に認識できるだけだ。

ここで重要なのは、触覚が先天的にない人間にとって、「手がコップに当たっている」という事態の認識と「コップと別のコップが当たっている」という事態の認識は本質的には同じだという点である。

触覚のある人間にとって、「コップと別のコップが当たっている」という事態の認識と「手がコップに当たっている」という事態の認識は異なっている。手がコップに当たる場合、自分の手が触れているという触覚的な認識が視覚的な認識に加わるからである。

ところが、触覚のない人間にとってはそうではない。手も、コップも、別のコップも、ただ「そこに見えているもの」に過ぎない。

彼ら彼女らは、手が「自分の手」だという自覚を殆ど持たないはずである。というのも、「これが自分の手だ」という認識は、手に感覚がある=触覚があることで生じる認識だからである(麻酔を受けた時に、自分の身体が自分とは別のもののように感じる経験を思い出せばいい)。

したがって、「自分の身体」という固有な存在(リアリティ)の経験には、触覚が不可欠であると結論づけられる。

自分の身体から視点を広げると、あらゆる存在の「ここにある」という現実性は、視覚ではなく触覚に由来するとさえ言える。というのも、画面越しに見るアイドルの実在は疑いうるが、握手してもらうアイドルの実在は—その「触覚」ゆえに—疑い得ないからである。

とすると、「存在は知覚されるものである」とするバークリの意見を補強する形で、以下のような主張ができるだろう。

「現実存在は、触覚されるものである」

『視覚新論』と関連の深い書籍

  • 戸田剛文著『バークリ —観念論・科学・常識』、法政大学出版局、2007年。
  • 冨田恭彦著『観念論の教室』、筑摩書房、2015年。
  • 冨田恭彦著『バークリ「原理」を読む—「物質否定論」の論理と批判』、勁草書房、2019年。
  • バークリ著:下條信輔他2人訳『視覚新論』、勁草書房、1990年。
  • バークリ著:戸田剛文訳『ハイラスとフィロナスの三つの対話』、岩波書店、2008年。
  • バークリ著:宮武昭訳『人知原理論』、筑摩書房、2018年。
  • 山川仁著『孤独なバークリ』、ナカニシヤ出版、2018年。

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