『暴力批判論』について〜法的暴力と神的暴力〜

『暴力批判論』について〜法的暴力と神的暴力〜

はじめに:今、ベンヤミンの「暴力批判論」を読む理由

端的に言って、現代は暴力に対して極めて無自覚な時代である。

平和を謳いながら、何の躊躇もなく他国へ侵攻する。

平等を尊重すると言いながら、意図せず差別する。

そして、暴力を否定しながら、無自覚に他人を虐げる。

生活レベルと教育水準の向上によって、多くの人が「暴力はいけないことだ」と表面的には理解できるようになってきている。ただ問題は、暴力への理解があまりにも浅薄であるがゆえに、自分及び他人の行為や態度の暴力性に気づけない人が多くいるということである。

暴力とは何で、なぜ批判されるべきなのか。その問いについて考える上で、暴力論の古典であるヴァルター=ベンヤミンの「暴力批判論」を読むことは極めて有効である。

岩波文庫版(野村修編訳、1994年)で34頁しかない小論だが、内容は非常に重厚なので、紙とペンを持ちながら読むことをお勧めする。

本稿は、この「暴力批判論」についてのささやかな解説記事である。平易な言葉で短く内容を整理してあるので、ベンヤミンの「暴力批判論」読解の参考になれば幸いである。

「暴力批判論」で批判されている暴力について

適切な暴力とは何か。この問いはしばしば、「適切な暴力は適切な目的に向かうし、適切な目的は適切な暴力によって達成される」というドグマによって歪められてきた。暴力という手段の適法性は、その暴力が向かう目的の適法性を見ればわかる、と考えられてきたのである。

しかし実際には、事はそう単純ではない。目的は合法的でも、手段が明らかに違法であることは往々にしてある。だから私たちは、暴力そのものに注目しなければならない。

まず前提として、現代ヨーロッパの法関係は、場合によっては暴力を持って合目的的に追求される個人の自然目的を、どんな場合にも許容しない。

あらゆる暴力は、歴史的・普遍的な承認によってのみ正当化される

公的な承認が与えられた暴力は、「法維持的暴力」と「法措定的暴力」の2種類に分けられる。

法維持的暴力とは、既存の法秩序を維持するために機能する暴力である。典型例としては警察が挙げられる。

一方で法措定的暴力とは、主に紛争や戦争を通して、新たな法秩序を打ち立てるために用いられる暴力である。

法措定の暴力によって新たな法が生まれ、別の法措定の暴力によって倒されるまで、法維持の暴力によってその秩序が保たれる。このように、歴史的・普遍的な承認を得た暴力は、法の制定・維持・没落の循環を駆動させる力として機能している。

この循環が続く限り、人は人を傷つけ続ける。法措定の暴力によって樹立された法秩序は、ある特定の人が利する行為を別の誰かに強いることで成立しており、その別の誰かに募った不満が、別の法秩序の中で更に別の誰かへと吐き出されていくからである。

この負の循環から脱却するためのオルタナティブな暴力として、ベンヤミンは「神的暴力」を取り上げている。

「神的暴力」はやや難しい概念なので、以下で詳述する。

「暴力批判論」における「神的暴力」について

ベンヤミンが「暴力批判論」の最終段で唐突に持ち出している「神的暴力」は、暴力による法秩序の外側へ抜ける切り札として扱われているにも関わらず、その説明は非常に短い。正直なところ、この説明だけで内容を理解するのは困難を極める。

そこで以下では、神的暴力の概要を踏まえて、何が「神的」であり「暴力」であるのかという点を深堀する。

「神的暴力」の働きについて

法秩序の構築は二者以上の間での契約として成立する。法を措定する暴力は、最終的にはこの契約の締結に向かって進む(「私たちに、これまで蔑ろにされてきた〇〇という権利を認めろ」などと言うわけだ)。

このように、何かを決めようとして働くのが法措定的暴力であるとすると、神的暴力は敢えて何も決定しない状態で、自分の立場が他人の影響で変容する余地を残した状態で交流し続けることである。

紛争において、敵とみなされる相手とのコミュニケーションは非常に難しい。できる限り自分に有利になるように、早期に決着をつけたい。そう考えて意思疎通を図るとき、両者の間には法措定的な性格の暴力が行き交う。

しかし、ここで敢えて立ち止まってみる。決着をつけようとするのではなく、相対する敵の言わんとすること、一見して承認しにくい言葉に耳を傾ける。お互いに傾聴の姿勢を保ったまま、対話を続ける。辛抱強く話し続け、何かが了解」される——相手の言わんとすることが、なんとなく分かる——状態になるのを目指す。

決着を急がず、待ち、傾聴し、お互いの「了解」を目指す。神的暴力とは、この「市民的統治」(国家的統治=法による統治の対義語)の技術である。

「神的暴力」はなぜ「暴力」なのか

一見して、神的暴力と呼ばれる技術は極めて非暴力的であるように思える。実際ベンヤミンも、神的暴力を市民的な非暴力の対話と結びつけている。しかしそれでも、見方を変えれば、この市民的統治の技術は極めて暴力的な色合いを帯びてくるのである。

神的暴力の当事者の立場から一歩離れて、法秩序の統治者の立場から神的暴力を眺めてみよう。

神的暴力は、何かを決定することなく、お互いの「了解」を目指す技術である。

この技術によって社会の統治を試みるとき、当然ながらそこに法による支配は生まれない。法そのものが策定されないからである。

市民がこの技術によって自らを統治しようとすることは、国家から見れば叛逆的行為である。何しろ、法による支配の外側で生きようとしているわけだから、国家としては迷惑極まりない話である。

紛争の当事者からすれば、神的暴力の技術は極めて非暴力的である。しかしこの技術は、国家としてはこれ以上ないほどの暴力として働くのである。

「神的暴力」はなぜ「神的」なのか

ここまで神的暴力について色々と説明してきたが、これがなぜ「神的」と呼ばれるのか、不思議に思う人も多いだろう。

ベンヤミンは、暴力によって法が措定され、維持され、作り変えられるというありようを「神話的」と形容しており、この状態から脱却する力として「神的」暴力を取り上げた。

言葉として似ているので注意が必要だが、ここで「神話的」と「神的」は対立項になっている(「一切の領域で神話に神が対立するように、神話的な暴力には神的な暴力が対立する」岩波文庫版p59)。

「神話に神が対立する」というのは一見するとわかりにくいが、神話の主人公が英雄であり、ベンヤミンがここで神話を英雄譚として扱っていることを踏まえると、「神話における英雄と神が対立する」と読める。

「神話的」(あるいは英雄的)で、法を措定する暴力とは逆に、法を破壊するので「神的」と呼ばれる、というわけである。

以上がベンヤミン自身によって説明されている「神的」の由来だが、現代アメリカの哲学者ジュディス=バトラーは、著書『非暴力の力』の中で、別の観点からこの「神的」の由来を説明している。

バトラーは、ベンヤミンの神的暴力に対する説明の補助線として、同時期に書かれた「翻訳者の課題」での翻訳論を参照している。

曰く、「翻訳は、言語に内在するある観念『言語そのもの』、すなわち、コミュニケーションの隘路や失敗、そして交流の不可能性を乗り越えるものを発展させ、さらには実現することを助けるのである」(『非暴力の力』p134)。

この「言語そのもの」とは、「あらゆる言語を貫いて流れる」意図であり、ベンヤミンによって「神の言語」と呼ばれている。

ここでバトラーは、異なる2つの言語の壁を超越する翻訳と、紛争の当事者である二者の間での「了解」を結びつけて「神的」という表現を解釈している。「了解」の背後には、翻訳における「神の言語」のような、立場の違いを越えて共有される——超越者という意味で神的な——意図がある、と。

同時期に書かれた「暴力批判論」と「翻訳者の課題」の間の共通項から「神的」の所以を解釈するのは非常にダイナミックで興味深い。やや勇み足に過ぎる部分もあるかもしれないが、検討に十分値する解釈であるだろう。

終わりに:「暴力批判論」における「神的暴力」の実現に向けて

以上、「暴力批判論」における「神的暴力」について深堀してきたが、最後に残る疑問が一つある。

神的暴力が、法と暴力の負の循環を破壊する力を持つのは良いとして、実際にこの神的暴力によって市民的統治を図るには、具体的にはどうすれば良いのか?

「暴力批判論」が書かれたのは1921年なので、すでにベンヤミンの構想から100年以上が経過していることになるわけだが、彼の理想が実現されているとはとても言い難い。むしろ、法による国家的統治の権力は近年徐々に強まっているのではないかとさえ感じる。

それも無理のない話である。紛争の当事者となった時、あえて立ち止まって相手に寄り添って交流し「了解」を目指すのは決して容易ではない。

この神的暴力による市民的統治を実現させるには、市民一人一人が最低限「了解」を目指せるだけの能力を持っている必要がある。

「了解」に必要な能力は多岐にわたるが、核心を担うのは他者への共感能力と言語の運用能力である。この能力を涵養する教育の充実が、ベンヤミンの理想を現実に近づける上で不可欠になる。教育の変革には長い時間がかかるが、理想の実現に近道はない。やるべきことを、淡々と一つ一つこなしていくのが肝要である。

暴力批判論について深く知る上で重要な資料

  • 『永遠平和のために』(イマヌエル・カント、宇都宮芳明訳、岩波書店、1985年)。
    • 国連の思想的理念の基盤として知られる、カントの平和論。ベンヤミンの言う「市民」はカント的な意味が大きい。要参照。
    • 詳しくはこちら
  • 『人倫(道徳)の形而上学の基礎付け』(イマヌエル・カント、中山元訳、光文社、2012年)。
    • 同じくカントによる倫理学概論。「三批判書」の一つ『実践理性批判』と併せて読みたい。
  • 『革命について』(ハンナ・アレント、志水速雄訳、筑摩書房、1995年)。
    • 一種の革命論として「暴力批判論」を読むときには絶対に外せない参考図書
  • 『暴力 手すりなき思考』(リチャード・J・バーンスタイン、斎藤元基他5名訳、法政大学出版局、2020年)。
    • 第2章で、ベンヤミンの「神的暴力」に関する研究史が整理されている。
  • 『非暴力の力』(ジュディス・バトラー、佐藤嘉幸・清水知子訳、青土社、2022年)。
    • 第3章で、バトラーによるベンヤミン暴力論への解釈が展開されている。
  • 『総特集:ウクライナから問う歴史・政治・文化』(現代思想2022年6月臨時増刊号、青土社)。
    • 人文系雑誌「現代思想」が、ロシア=ウクライナ戦争を受けて出版した特集号。今のこの時代の暴力について考える上で参考になる。

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