『人間本性論』の基本情報

書籍名:人性論
著者名:デイヴィッド・ヒューム
翻訳者名:土岐邦夫・小西嘉四郎
発行:中央公論新社
発行年:2010年

 

『人間本性論』のキーワード

カテゴリ:哲学、経験論、認識論、行為論
キーワード:因果、認識

『人間本性論』のレビュー

今、日本と中国・韓国との間で歴史認識をめぐる問題が紛糾しています。

歴史認識をめぐる問題とは、結局のところ因果関係の解釈をめぐる問題に帰結します。

『「出来事xが、出来事y」を引き起こした』という命題をf(x,y)とおけば、この変数x, yに歴史家たちが思い思いの値を代入して議論を展開しているのです。

この粘っこくて脂っこくて汚い論争を、近代イギリス哲学の巨星ヒュームが見たら、きっと眉を顰めることでしょう。

というのも、ヒュームからすれば因果関係なんていうものは人間の認識の内部の問題であって、現実世界に素朴に適応できるかどうかはわからないはずだからです。

私たちが日頃当たり前に考えている「因果」が、実は現実世界のものではない。

だとすれば、私たちは普段いかにして因果の糸を紡いでいるのか?

政治家と歴史家たちのしょうもない論争を傍目で見ながら、私たちは私たちで、ヒュームと一緒にこの「因果」をめぐる問題について考察していくことにしましょう……。

『人間本性論』の要旨・要約

『人間本性論』の要旨・要約①:現実世界における因果規定の限界

因果関係は目に見えません

例えば、「本を読んでいたので、目が疲れた」という主張には、「本を読んでいた」という出来事と「目が疲れた」という出来事を繋ぐ因果関係があります。

「本を読んでいた」という出来事と「目が疲れた」という出来事は目に見えますが、「ので」とか「だから」という因果を表す部分は目に見えませんよね。

目に見えない因果を、いかにして1つに確証するのか。この問題は人間には解けません。というのも、2つの出来事の間に複数の因果が存在する可能性を、人間は否定できないからです。

「本を読んだ」という出来事Aと、「目が疲れた」という出来事Bの因果関係を考えましょう。

常識的には、「A→B」という因果関係が成立しそうですが、ここで当人が全く予期していなかった出来事Cが、出来事Aと出来事Bを同時に発生させたと考えてみてください。

この場合、実際の因果関係は「A→B」ではなく、「C→A」かつ「C→B」になり、AとBは実質無関係になりますね。

人間の認識には常に限界がありますから、その限界の外側の事象によって実際の因果関係が規定されることもあるはずです。ということは、現実世界における因果関係を正しく認識することは事実上不可能と言わざるを得ません。

そこでヒュームは、「現実世界において因果関係がどう働いているか」ではなく、「私たちがどのように因果関係を認識しているか」を分析しようとしました。

因果関係の問題の場を、現実世界(外部)から私たちの認識(内部)へと移行させたのです。

『人間本性論』の要旨・要約②:ヒュームの原子論

「私たちがどのように因果関係を認識しているか」を因果論の分析対象にしたヒュームは、「原子論」という考え方によって人間の因果認識を説明しました。

原子論とは、

  1. 人間の認識の源泉は知覚にあり
  2. 知覚は印象(直接的知覚)+観念(印象のコピー)であり
  3. それ以上分けられない単位的な印象・観念を「単純印象」・「単純観念」と呼び、
  4. それぞれの単純印象・単純観念は互いに独立しており、初めから連結されているわけではない

という考え方です。

印象や観念は「私たちが見ている出来事」のことなので、出来事同士は初めから因果的に連結しているわけではないというわけですね。

しかし現実問題として、私たちは2つの出来事の間に何らかの因果関係を認識しながら生きています。この因果関係は、どのように形成されているのでしょうか。

『人間本性論』の要旨・要約③:因果関係の認識

ヒュームは、私たちが認識している出来事の中には、「出来事Aが起こったあと、そのすぐそばで別の出来事Bが発生する可能性が非常に高いような出来事A, Bの組み合わせが存在する」と指摘しています。

このような条件を満たす出来事AとBの関係を「恒常的連結」といいます。例えば、「コップを落とす」という出来事と「コップが割れる」という出来事は「恒常的連結」の関係にありますね

恒常的連結の関係にある出来事は日常的に発生するので、私たちは「コップを落とす」という出来事が発生したら「コップが割れる」という出来事も発生するのではないかと習慣的に(無意識に)考えるようになります。

このとき、私たちの思考はある種強制的に「コップを落とす」という対象から「コップが割れる」という対象に向けられています。ある対象から別の対象へ思考の向きを移す強制力こそ「因果関係」であるとヒュームは考えました。

要するに、因果関係は私たちの習慣化された思考の中にあるもので、現実世界にあるわけではないとヒュームは考えていたのです。

現実世界における因果関係を否定するヒュームの立場は「懐疑論」と呼ばれ、後のカントの思想に大きな影響を与えました。

『人間本性論』の要旨・要約④:自由意志と行為責任

因果関係の分析から派生して、ヒュームは人間の自由意志と行為責任についても考察を進めます。

仮に、現実世界が因果関係に満ちているのだとすれば、人間に意志の自由はないことになります。「意志する」という行為が決定された因果の一部に組み込まれてしまうからです。

しかしヒュームの考え方によれば、現実世界に因果関係は存在しません。したがって、人間の意志は自由である可能性を残すことができます。

したがって、私たちは自らの意志において行為することができる。ゆえに、人の行為の責任はその人の意志の中で確証されることができる。

自由であるとは責任を持つことである—私たちの胸にも留めておきたいフレーズですね。

『人間本性論』への感想:因果認識の共有可能性

ヒュームの指摘によれば、因果関係は人間の認識の産物ということになります。

しかし、もし個々の人間がそれぞれ違った因果関係の認識をしていたら、道徳や法律が共有されにくくなってしまいます。

例えば、以下のような状況を考えてみましょう。

  • 出来事A「太郎が花子を殴る」
  • 出来事B「花子が泣く」
  • 出来事C「先生が太郎や花子たち生徒を叱る」
  • 出来事の順番:C→A→B

こういう状況の場合、普通太郎に過失があると認められそうですが、花子が出来事Aを原因、出来事Bを結果と認識した一方で、太郎は出来事Cを原因、出来事Bを結果と認識していたら、太郎は自らの過失を認められなくなります。

太郎にとってA→Bの因果関係は認識不可能だとすれば、太郎は花子に不当に責められたと感じられるでしょう。

太郎が自分の過失を認めるためには、太郎と花子の間でA→Bの因果関係が共有可能である必要があります。

もう少し範囲を広げて考えれば、法律や道徳が全人類に共有可能であるためには、全人類が同一の因果関係を認識できなければならないことになります。

以上から、私たちは因果関係を共有する必要があるのですが、因果関係を共有するためには、私たちの認識システムが同一でなければなりません。

では、私たち人類の間で共有される認識システムとは何か。この問題について考えたのがカントというわけです。

カントとヒュームとの関係については、すでに多くの著作が出版されているので、稿末のおすすめ書籍紹介をぜひチェックしてみてくださいね!

『人間本性論』と関連の深い書籍

『人間本性論』の邦訳

  • 大槻春彦訳『人性論』1・2、岩波書店、1995年。
  • 木曽好能訳『人間本性論 普及版』1・2・付録、法政大学出版局、2019年。
  • 土岐邦夫・小西嘉四郎訳『人性論』、中央公論新社、2010年。

『人間本性論』の解説書

  • 泉谷周三郎著『ヒューム:人と思想 新装版』、清水書院、2017年。
  • 中才敏郎著『ヒュームの人と思想:宗教と哲学の間で』、和泉書院、2016年。
  • ニコラス・フィリップソン著:永井大輔訳『デイヴィッド・ヒューム:哲学から歴史へ』、白水社、2016年。

ヒュームとカントの関係に関する書籍

  • 高田純著『カント実践哲学とイギリス道徳哲学』、梓出版社、2012年。
  • 増山浩人著『カントの世界論』、北海道大学出版会、2015年。
  • ルイス・ホワイトベック著:藤田昇吾訳『6人の世俗哲学者たち—スピノザ・ヒューム・カント・ニーチェ・ジェイムズ・サンタヤナ』、晃洋書房、2017年。

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