目次
はじめに:「<他者>へ向かう美学」第1回のおさらい
この記事は、「<他者>へ向かう美学」という連載の第二回目の記事である。
今回の記事では主にレヴィナスの芸術論について扱うが、その前に第一回の内容を簡単に確認しておこう。詳しくは以下の記事を見てほしい。
美学への問題意識
美学を始めとする人文科学は、自然科学とは違って「役に立たない」学問だと考える人が多い。しかし美学が「役に立たない」と考えられるのは、私たちの知性の欠如のせいであって、実際には美学は「役に立つ」のではないか。
「役に立つ」学問として美学を捉える上で、フランスの現代思想家エマニュエル=レヴィナスの思想は非常に有益である。この連載では、レヴィナスの思想を追いながら、美学が持っている可能性について考察する。
カントとレヴィナスの「感性的なもの=美学」をめぐる議論
美学は、語源的には「感性的なもの」という意味を持つ。連載第1回「レヴィナスとカントの美学的比較」では、この語源的意味に注目し、美学理論のパイオニアの一人であるカントとレヴィナスの「感性」をめぐる議論の違いを考察した。
カントの美学(先験的感性論)によれば、あらゆる感性・知覚の働きの根底には、先験的=論理的に定められた「純粋直観」の働きがあるとされている。
レヴィナスは「意識が何かを捉えている」という事実の絶対性に立脚する現象学の立場をとっているが、レヴィナスは現象学の前提をより掘り下げている。
レヴィナスは、「意識が何かを捉えている」という事態が達成されるためには、論理性に還元されない純粋に身体的な感性が働く必要があると考えている。
カントが感性を先験的=論理的に規定していたのに対して、レヴィナスは感性を身体的=脱論理的に規定している。
脱論理的で純粋に身体的な感性は、感覚する対象と自分自身とを一体化させることによって、自我とは絶対的に異なる<他者>へと開かれる。では、<他者>へ開かれる経験とは、具体的にはどんなものか?__と問いを投げたところで、第1回の記事は終わっていた。
そこで連載第2回目である今回は、「<他者>が自我に対してどのように開かれているのか?」という問題を考察する。
「<他者>へ向かう美学」シリーズの構成と第2回の概要
「<他者>へ向かう美学」シリーズの構成
- 第1回:レヴィナスとカントの美学的比較
- 第2回(今回):レヴィナスと芸術=悲劇論
- 第3回:悲劇が示す2つの欠如——イリヤと死
- 第4回:美学から倫理学へ
- 第5回:レヴィナスの美学の総括——女性論へ向けて
「<他者>へ向かう美学」第2回の概要
哲学の議論は長くなりやすい。わかりやすくすればするほど、説明はどうしても長くなってしまう。しかしそれでは退屈なので、先にこの記事の概要を示しておこう。
<他者>は自我に対してどのように開かれるのか。
この問題に対するレヴィナスの回答は以下のように要約できる。
「自分には何かが絶対的に欠けている」__と感じることによって、<他者>が自我に開示される。この感受的経験を促すのが、悲劇=芸術である。
……「何のことやらサッパリだ」と感じた人も多いだろうが、無理もない。汲めども汲めども汲み尽くせないレヴィナスの芸術論を、たった2行に要約しようとするのは無謀と言っていい。この要約を理解するのは、以下の解説をじっくり読んだ後でも遅くないので、まずは記事を一読してみてほしい。
この記事では、レヴィナスの芸術論を以下の3点の疑問に応答する形で解説する。
- 美学 (aesthetics) の本質は「感性的なもの」(the aesthetic) であると連載第1回の記事で指摘したのに、なぜレヴィナスの美学を問うために芸術論を持ち出すのか?美学と芸術には何の関係があるのか?
- レヴィナスは、美学のどのような点を悲劇として捉えているのか?そもそもレヴィナスにとって悲劇とは何か?
- 芸術の特性を悲劇に還元するのは恣意的ではないのか?
芸術と美学との関係
私は第1回の記事で、美学の本質は感性の分析にあると指摘し、芸術論としての美学は感性論としての美学の派生に過ぎないと述べた。ならば、なぜこの「<他者>へ向かう美学」の中で芸術論について触れる必要があるのか、と疑問に思った方もいるだろう。
その疑問は鋭く、的確に美学の問題を射抜いている。「美学」という言葉を世界史上初めて使った哲学者アレクサンダー・ゴットリープ・バウムガルテンが指摘しているように、美学とは感性についての学である(バウムガルテン、p.22)。
しかし、感性について考察するのは意外と難しい。私たちは、普段理性と感性の区別を特別意識せずに事物を判断している。そのため、私たちの通常の事物に対する判断から感性の働きだけを抽出するのは困難である。
感性の働きだけを抽出するためには、感性のみによって判断される事物を用意して、私たちの認識とその事物との関連性を調べる必要がある。ここでいう「感性のみによって判断される事物」こそ「芸術」に他ならない。
レヴィナスによる芸術の定義は後述するが、良質な芸術は感性に強い衝撃を与える。その芸術に対する感性の反応を観察すれば、自ずと感性の分析が可能になる。
以上の理由から、美学を考察する上で、芸術と感性との関係への考察は必要不可欠である。そこで以下では、悲劇という芸術と感性との関係を考察する。
悲劇としての芸術論
「自分には何かが絶対的に欠けている」。この感覚は悲劇という芸術によって経験される、とレヴィナスは述べている。
絶対的に欠如している「何か」は、<私>にとっての<他者>になる。この<他者>は、<私>を中心とする「世界」の外側から到来する「異郷性」を持っている__とレヴィナスは指摘している(『実存から実存者へ』p.83)。
ここでいう「世界」は、20世紀最大の哲学者の一人であるハイデガーの『存在と時間』に由来するキーワードである。レヴィナスの芸術論を理解するためには、まずはハイデガーの「世界」をじっくりと考察していこう。
悲劇としての芸術論①:「世界」の中の、道具としての対象
ハイデガー現象学の独自性:意識の「場所」としての「世界」
ハイデガーの哲学的立場は、レヴィナスと同じく現象学である。現象学の基本的なスタンスは、「意識が何かを捉えている」という事実の絶対性に依拠して普遍性を目指す__という点に要約できる。
ハイデガー現象学の独自性は、「意識が何かを捉えている」という事態が達成される「場所」に注目した点にある。この「場所」こそ、ハイデガーの「世界」である。
と言っても、今ひとつイメージを掴みづらいと思うので、具体例を挙げながら説明する。
「意識が何かを捉えている」という事態が果たされる「場所」とは、別に高尚な場所ではない。今目の前に広がっている日常の世界が、他ならぬ「場所」=「世界」である。
今私の目の前にはMacBookがあり、スケッチブックがあり、コップがあり、シャーペンがある。
私は原稿を執筆するためにMacBookを使い、原稿のメモ書きをするためにスケッチブックとシャーペンを使い、集中し過ぎて脱水症状に陥らないように適宜コップで水を飲む。
何気ないこの日常の風景の中で特筆すべき点は、<私>が何らかの行為・態度を取るとき、私の意識に現れている諸事物は、その行為・態度に関連する「道具」として意識されている(意識に現れている)という点である。
「道具」としての事物、あるいは「世界内存在」としての事物
MacBookがあり、スケッチブックがあり、コップがあり、シャーペンがある。この「世界」で<私>が「原稿を書く」という行為を取るとき、これら諸事物は<私>の行為に関連づけられる「道具」(das Zeug)として機能している__という事実を、ハイデガーは発見した(ハイデガー『存在と時間』上、p193)。
私たちは、常に何らかの行為・態度を取りながら生きている。とすると私たちは、MacBookなどの諸事物を「道具」として使いながら——自らの行為・態度と関連づけながら——生きていることになる。
私たちが普段生きている世界は、<私>の行為・態度と、<私>の周囲の諸事物との関連性の総体として存在している。この<私>を中心とする関係性の総体としての世界を、ハイデガーは改めて「世界」(die Welt)と呼び直した(ハイデガー『存在と時間』上、p214)。
(有馬や池田が指摘しているように、「世界」には「環境世界」(die Umwelt)や「生活世界」(die Lebenswelt)など別の表現もあるが、この記事では「世界」で統一する)
日常の中で<私>が何らかの行為・態度を取るたびに、<私>を取り囲む諸事物との関連性の総体としての「世界」が開示され、事物は「世界」の内で——<私>との関連の中で——存在する。
このハイデガーの思想に対して、レヴィナスの芸術論は「世界内存在」ではない事物の存在形式を示している。レヴィナスの有名な思想書である『実存から実存者へ』と『存在の彼方』を手に取って、ハイデガーとの違いを意識しながらレヴィナスの芸術論を考察していこう……。
(『実存から実存者へ』と『存在の彼方』については、以下の記事を参照してほしい)
悲劇としての芸術論②:対象を「世界」から引きはなす芸術
『実存から実存者へ』・『存在の彼方』における芸術論
『実存から実存者へ』第3章第1節「異郷性」には、以下のような記述がある。
「事物は、所与の世界の部分としてひとつの内面に関係づけられ、認識の対象ないし日用的な対象として実用性の歯車の連鎖に組みこまれている。そしてそこでは事物そのものの他性はほとんど目立たない。芸術は諸々の事物を世界から浮き立たせ、そのことによって事物を一つの主体への帰属という状態から引き離す」(p.83)
「『対象』は外にあり、『内部性』に関与することなく、既に自ずから『所有されている』わけでもない。絵画・彫刻・書籍は私たちの世界の対象であるが、それらを介して、表象された事物は私たちの世界から遊離する」(p.84)
また『存在の彼方』第2章第3節d「存在と存在者の両義性」で、レヴィナスは芸術作品について次のように述べている。
「作品の組み尽くせない多様性において……色・形・音・言葉・外衣。それらはすでに存在者として自らを確認しようとしていて、属詞を所有する実詞の中で自らの性質・形質を見出しているが……それらは再び『存在』し始める」(p.52)
以上3つの記述に共通する思想を、一言でまとめると
「芸術は、事物を『世界』から引き離す」
になる。
「世界内存在」ではない事物を示す芸術
ハイデガーが指摘している通り、私たちは日常的な行為・態度の中で事物を<私>との関連の中で(「世界内存在」として)捉えている。しかし芸術は、行為・態度をとる<私>との関連からは捉えられない事物を現している。
例えば、以下の写真を見てほしい。
何だこれは、というのが正直な感想だろう。この写真は、ある事物をクローズアップという写真芸術の技術を使って撮ったものだが、さてこの事物は何だろうか。
答えはMacBookのスピーカーである。普段パソコンを使っているときには当たり前に「音響装置」という道具として捉えられるスピーカーが、クローズアップという芸術の技法を使うと途端に訳がわからない代物になる。
この写真に写った代物に対して、私たちは既存の概念を用いて名をつける——例えば、「容器」という概念を用いて「コップ」と名をつける——ことができない。
既存の概念を用いて事物に名を与えられないならば、その事物を道具として使えない。概念による規定がなければ、事物の取扱方法を説明できないからである。
事物を道具として使えないならば、<私>はその事物を自分の行動・態度との関連性から捉えることができない……このとき、その事物は「世界内存在」ではなくなってしまう。
日常的な生活の中では、事物は確かに「世界内存在」として存在する。しかし芸術によって日常が異化されるとき、事物は「世界」の外=異郷の存在になるのである(レヴィナス『実存から実存者へ』、p.83)。
自分には絶対的に欠けている<他者>を発見する芸術=悲劇
世界における諸事物との関連を抜け出した事物それ自体。<私>との関係から剥離した事物それ自体を、芸術は発見する。このような「世界内存在」でない事物は、<私>との関係から疎外されている点で<他者>である。
芸術が、<私>との関係から疎外された<他者>としての事物を発見するとき、<私>は<他者>に触れさせられる。言い換えれば、<私>の支配が及ばない<他者>を見出す……自分にはない、自分に絶対的に欠けている<他者>が発見される……この経験が「悲劇」である、とレヴィナスは指摘している(『存在の彼方』p.222)。
このような聞き慣れない芸術=悲劇論を受けて、レヴィナスは「芸術」や「悲劇」という言葉を恣意的に使っているのではないか、と疑る人もいるかもしれない。
だが、レヴィナスによる芸術・悲劇の規定は、決して恣意的ではない。
芸術論の源泉はアリストテレスの『詩学』にあるが、本書で芸術を規定する際、アリストテレスは芸術を悲劇として取り扱っている(戸高、p40)。芸術=悲劇の図式は、すでにアリストテレスによって確立されているのである。
芸術論の起源としてのアリストテレス
アリストテレスは悲劇を芸術の中の芸術(芸術の本質)と見做していたが、なぜ悲劇は芸術の本質であるのか。
アリストテレスにとって、芸術の本懐は「模倣」(ミーメーシス)であり、悲劇とは英雄の模倣だった。戸高が指摘しているように、英雄とは凡人に比べて優れた人物のことである。優れた人物を模倣する芸術は、芸術の中でも優れている、というわけである(戸高、p47)。
悲劇では、主人公である英雄が予想しなかった出来事に遭遇し、惨劇に巻き込まれる。
その予想し得ない出来事は、<私>を中心とする世界から引き離されている。従って、その出来事はレヴィナス風に言えば<他者>になる。
世界における諸事物との関連から抜け出した出来事。<私>の意図を裏切る出来事。それが<他者>である。
もちろん、アリストテレスの時代には現象学の思想はなかったので、アリストテレスの芸術論における<他者>はレヴィナスの<他者>とは異なっている。しかし悲劇を悲劇たらしめる「予想しない出来事」は、<私>を中心とする世界の外部から到来する。
自分に絶対的に欠けている<他者>が現れる経験を悲劇とみなす__このレヴィナスの思想は、やはり根本的にはアリストテレスの芸術論に由来しているのである。
結論と展望:芸術=悲劇論と<他者>の問題
アリストテレスに由来するレヴィナスの芸術論を、今一度まとめておこう。
- レヴィナスにとって芸術とは悲劇である。アリストテレスが指摘しているように、芸術とは模倣であり、悲劇は最も優れたもの(英雄)の模倣だからである。
- そして悲劇とは、自分に絶対的に欠けている<他者>が発見される感覚的経験である。
- 悲劇としての芸術が、<私>との関係から疎外された<他者>としての事物を発見するとき、<私>は<他者>に触れさせられる。
だが、<他者>が<私>に絶対的に欠けているものだとすれば、一体<私>には「何」が「どのように」欠けているのだろうか。第3回の記事では、この点について考察する。
この記事で用いた参考文献
和文
- アリストテレス『詩学』三浦洋訳、光文社、2019年。
- 有馬善一「芸術と世界——ハイデガーの芸術論への一考察」『経営情報研究』第18巻第2号(2011年2月)、93-106頁。
- 池田喬「行為と世界——初期ハイデガー哲学の研究」東京大学大学院人文社会系研究科、2008年(博士論文)。
- 戸高和弘「アリストテレス『詩学』——その悲劇論としての限界」『文芸学研究』第9号(2005年3月)、40-69頁。
- ハイデガー、マルティン『存在と時間』上、細谷貞雄訳、筑摩書房、1993年。
- バウムガルテン、アレクサンダー・ゴットリープ『美学』松尾大訳、講談社、2017年。
欧文
- Levinas, Emmanuel. De l’existence à l’existant, Librairie Philosophique J Vrin: l’édition de poche, 1990.
- —————— .Autrement Qu’être: au-delà de l’essence, Springer, 1991.