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はじめに:レヴィナスのおすすめ哲学書を3冊紹介します!
こんにちは。熱中症になって昨日一日中寝ていたライターのらりるれろです(みなさん、熱中症には十分気をつけてください)!
この記事を読んでいただいている人の多くは、レヴィナスという思想家の名前をどこかで聞いたことがあるが、まだ実際にレヴィナスの著作を読んだ経験がないことでしょう。
あるいは、一度レヴィナスの著作を手に取ってみたものの、難し過ぎて途中で挫折した人もいるかもしれません。
そこでこの記事では、はじめにレヴィナスの思想について簡単に説明し、その上でレヴィナスの著作の中からおすすめしたい哲学書を3冊紹介します。
レヴィナスに少しでも興味がある人は、ぜひ最後まで読んでみてくださいね!
レヴィナスとその思想
レヴィナスは、1906年にリトアニアのカウナスに生まれ、その後20代でフランスに帰化しました。
1930年代にフッサール・ハイデガーの思想をフランスに輸入したレヴィナスは、思想界の第一線で活躍するようになります。
エリートとして活躍していたレヴィナスですが、彼はユダヤ人だったため、第二次世界大戦中はナチスに捕虜として抑留されてしまいます。
レヴィナス自身は虐殺されずに収容所から生還したのですが、彼の親族のほとんどはナチスに殺されてしまいました。
その凄惨な虐殺を経て、レヴィナスは1940年代後半に『実存から実存者へ』などを発表し独自の思想展開を進めていきます。
その後はユダヤ人高等師範学校の校長を勤めながら、精力的にユダヤ思想哲学に関する論文を発表しました。
1961年、55歳になったレヴィナスは、それまでの研究成果をまとめた『全体性と無限』を発表し、大学教授資格を得ます。
この『全体性と無限』が高く評価され、レヴィナスの思想は広く知られるようになりました。
1973年、自身の哲学思想の集大成となる『存在と彼方へ』を発表し、レヴィナスはアカデミズムでの地位を確立します。
以降も宗教や哲学に関する論文・著作を旺盛に執筆したレヴィナスは、1995年にパリで亡くなりました。89歳でした。
そんなレヴィナスの思想の特徴をあえて一言で表すなら、「他者に向かう思想」となるでしょう。
「他者」と言っても、普通の意味での「他者」とはかなり意味合いが異なります。
詳しい説明は後の哲学書紹介で行いますので、今はとりあえず「レヴィナスは『他者』について考えていた」ということを抑えていただければ十分です。
レヴィナスのおすすめ哲学書3選
レヴィナスとその思想についての簡単な説明が終わったところで、おすすめ哲学書の紹介に移りましょう。
この記事で紹介する哲学書は以下の3冊です。
- 『実存から実存者へ』(1947年)
- 『全体性と無限』(原題:全体性と無限—外部性についての試論)(1961年)
- 『存在の彼方へ』(原題:存在するとは別の仕方で、あるいは存在の彼方へ)(1973年)
いずれも難解な著作ですが、概要さえ掴めればグッとわかりやすくなるので、この記事の紹介文を読んでぜひ手に取ってみてくださいね。
レヴィナスのおすすめ哲学書①:『実存から実存者へ』
まずは1冊目、『実存から実存者へ』です。
『実存から実存者へ』の思想は、「ある」(il y a =イリヤ)というキーワードに要約できるのですが、この「ある」は普通の日本語の「ある」とは意味合いが全く異なっています。
私たちが日常的に使っている日本語の「ある」は、「事物が存在する」という意味での「ある」ですよね。
これに対してレヴィナスの「ある」は、「あらゆる事物の存在が消失したあとには『ない』という事実だけが『ある』ようになる」という意味での「ある」なのです。
平たく言うと、「ない」という事実の存在が「ある」というわけですね。
この「ある」はいかなる意味においても存在を否定されません。仮にこの「ある」の存在が否定されるのであれば、「『ある』が『ない』という事実が『ある』」ことになり、否定したはずの「ある」の存在が論理的に蘇ってきてしまうからです。
したがって、この「ある」は全ての事物の存在の根源であり、私たちの存在は全てこの「ある」から生起することになります。
だとすれば、私たちの存在は、いかにしてこの「ある」から生起しているのでしょうか—この存在をめぐる問題が、『実存から実存者へ』の最大のテーマになるのです。
「存在とは何か」について考えたい人は、ぜひ一度本書を手にとってみてください。
「内容が難しそうで不安…」という方は、以下の記事をご覧になってから読むと理解しやすくなると思うので、こちらも適宜ご笑覧ください^^
レヴィナスのおすすめ哲学書②:『全体性と無限』
2冊目に紹介するのは、1961年に出版された『全体性と無限』(原題:全体性と無限—外部性についての試論)です。
『全体性と無限』の思想は「他者」の思想とまとめられるのですが、「ある」と同様に、この「他者」も普通の日本語の「他者」とは意味合いが異なっています。
レヴィナスの思想の根底にある「現象学」では、思考する「私」以外の全ての存在を一旦否定し、この「私」が「現れている」という明らかな事実から他の存在を導出しようとします。
例えば、レヴィナスの師の一人であるフッサールは、「私」とは異なる「他なるもの」は「私」の意識の中で構成されていると考えていました。
これに対してレヴィナスは、私の意識の中で構成される「他なるもの」以外に、私の意識の外から到来する「他なるもの」が存在すると主張しました。
自己意識の中で構成される「他なるもの」は本当の意味での「他なるもの」ではなく、真なる「他なるもの」は自己意識の外側から到来し、自己のあり方を規定する決定的な要因となる、とレヴィナスは考えていたのです。
要するに、この「私」の存在の仕方の根底には、「私」と「他なるもの」との関係が横たわっている、というわけですね。
存在から倫理が生じるのではなく、倫理から存在が生じている—存在論と倫理学の地位を逆転させるレヴィナスの思想は、今なお幅広い学問分野に影響を与えています。
哲学に興味がある人だけでなく、医療・介護など倫理的な判断が求められる職に就く人にも読んでもらいたい一冊です。
詳しくはこちらからどうぞ↓
レヴィナスのおすすめ哲学書③:『存在の彼方へ』
最後におすすめするのは、1973年に書かれた『存在の彼方へ』(原題:存在するとは別の仕方で、あるいは存在の彼方へ)です。
『存在の彼方へ』の思想は、ざっくりまとめると「身代わり」の思想であると言えます。そろそろみなさんも慣れてきたかと思いますが、この「身代わり」もやはり普通の「身代わり」ではありません。
あらゆる存在は常に「自らを偏らせようとする」努力をしている、とレヴィナスは主張しています。
というのも、仮にこの世の構成要素が全て均等に配分されているなら、個体は個体として生成し得ず、存在が存在するということは、そこに何らかの「偏り」が生じている必要があるからです。
つまり、存在は常に自らを再構成している—言い換えれば、常に「自分ではない存在を目指して(=存在の彼方へ向かって)存在している」というわけですね。
「今、ここ」にいる存在は、次の瞬間には「存在の彼方」で存在している。ということは、かつて「存在の彼方」を占めていた誰かの「身代わりに」存在するようになる。
この「身代わり」は、自我が存在する上で不可避な責任であり、絶対的な受動性になる—とレヴィナスは指摘しています。
『全体性と無限』で指摘された存在と倫理との関係が、『存在の彼方へ』では更に推し進められて、存在の生起の次元に他者が介入するようになっています。
両者の存在論の違いを「他者」というキーワードから分析してみると面白いかもしれませんね。
「よくわからんな」と思った人は、こちらの記事をご覧ください↓
おわりに:おすすめ哲学書を読んで、難解なレヴィナス思想を理解しよう!
いかがでしたか?
この記事では、「他者へ向かう思想」として知られるレヴィナスが著した本の中で、『実存から実存者へ』・『全体性と無限』・『存在の彼方へ』の3冊を紹介しました。
今一度、それぞれの著作のキーワードをまとめておきましょう。
- 『実存から実存者へ』:「ある」
- 『全体性と無限』:「他者」
- 『存在の彼方へ』:「身代わり」
これだけ覚えて、レヴィナスの著作に当たってみてくださいね。
それでは!