目次
『嘔吐』の基本情報
書籍名:嘔吐
原題:La Nausée
著者名:ジャン・ポール=サルトル
翻訳者名:鈴木道彦
発行:人文書院
発行年:2010年
『嘔吐』のキーワード
カテゴリ:哲学、文学、実存主義、存在論
キーワード:存在、嘔吐
『嘔吐』のレビュー:実存主義とは何か
ジャン・ポール=サルトル。
約半世紀前に一世を風靡した実存主義の旗振り役として、日本でも高い人気を誇っている哲学者である。
本書『嘔吐』は、若きサルトルが自らの哲学的探究を日記調文学の中に託した長編小説であり、「実存主義」とは何かを学ぶ格好の教材と言えるだろう。
日本では「あるがままの私を肯定しよう!」というような明るいイメージで示されることが多い実存主義だが、サルトルの言う実存主義はもっと暗くてグロテスクなイメージを有している。
「私は、いかなる必然性をも持たない単なる『存在』である」__
この事実に気づくとき、人はみな堪えられない「吐き気」を催すのである。
『嘔吐』のあらすじ(ネタバレ注意!)
海外渡航から帰国したばかりのロカンタンは、30歳の独身男性であり、孤独を極める歴史家である。
人との関わりはほとんどないが、事物には恵まれていたので、さながら高等遊民のような生活をしていた。
だがあるとき、事物に彩られた生活に強い吐き気を感じるようになり、吐き気の正体を探るべく手探りの調査を始めることになる。
その結果彼は、自らを取り囲んでいる事物も一つの「存在」であり、自分自身も同じ「存在」であることに気づく。
私が今ここにいることには何の必然性もなく、今ここにいる私の価値は、何物によっても保証されていない。
今ここに存在する私は、いかなる物語からも疎外された「余計なもの」である__この感覚が、吐き気の正体だったのだ。
現在における吐き気は、現在が過去となって、自分の生を物語として語ることができるようになって初めて癒される。だから今はただ、時が経つのを待つのみである……。
こうして彼は、吐き気を喉奥に感じつつ生きるようになった。
『嘔吐』への感想:今ここにいる私は、まだ誰でもない
『嘔吐』の主人公ロカンタンは、自らの生と物語を以下のように考えている。
「しかし選ばなければならない。生きるか、物語るかだ」(本書p.68)
なぜ生と物語が互いに排反な関係にあるのか。簡単に言えば、生と物語は時間の流れが逆になっているのである。
物語は、どんなジャンルにせよ、書き始める時点で書き手には未来がわかっている。つまり、物語では未来が前提となって、そこから過去・現在が語られる。そして過去や現在は、物語の終局となる未来との関連において意味づけられる。
一方で生においては、当たり前だが未来はまだやってきていない。過去・現在が通り過ぎた後、ようやく未来がやってくるようになっている。
未来がやってきていないということは、現在の生は未来によっては意味づけられない。だとすると、私が生きているこの「今」はどのように意味づけられるのだろうか?
恐ろしいことに、この「今」は「今」自身によっては決して意味づけられない。というのも、「意味」というのは「AからBに対しての意味」というように、最低2つの基点が必要になるからである。
未来と関連づけられないなら、過去と関連づければいいじゃないかと思うかもしれない。
だが、「この現在はこの過去に対して意味を持っている」と言うとき、その「現在」はすでに「今」に対する過去になっている。人は、厳密には過去に対してしか言明できないのである。
このように、私たちが生きている「今」は、過去からも未来からも切り離されて宙に浮いている。
あらゆる意味づけから疎外された「今」の私は、「まだ誰でもない」のである。
『嘔吐』と関連の深い書籍
『嘔吐』と特に関連が深い書籍
- サルトル著『サルトル全集<第5巻> 壁』、人文書院、1950年
- サルトル著・伊吹武彦ほか訳『水入らず』、新潮社、1971年
- サルトル著・海老坂武ほか訳『自由への道』1〜3、岩波書店、2009年
- サルトル著・松浪信三郎訳『存在と無 現象学的存在論の試み』Ⅰ〜Ⅲ、筑摩書房、2007-2008年
- ボーヴォワール著・朝吹登水子ほか訳『女ざかり−ある女の回想』上・下、紀伊国屋書店、1963年
- ボーヴォワール著・川口篤ほか訳『招かれた女』上・下、岩波書店、1953年
- ボーヴォワール著・『第二の性』を原文で読み直す会訳『決定版 第二の性』1・2上・2下、新潮社、2001年
『嘔吐』と関連の深い「実存主義」の書籍
- ハイデガー著・細谷貞雄訳『存在と時間』上・下、筑摩書房、1993-1994年
- フッサール著・谷徹訳『内的時間意識の現象学』、筑摩書房、2016年
- フッサール著・浜渦辰二訳『デカルト的省察』、岩波書店、2001年