【知識のいらない哲学入門】4:ツイッターから始める哲学

【知識のいらない哲学入門】4:ツイッターから始める哲学

はじめに:私たちはなぜツイッターを開くのか

こんにちは。ライターのらりるれろです。【知識のいらない哲学入門】も第4回目を迎えました。今回のテーマは、みんな大好きツイッターです!

私はツイッターを始めてだいたい2年ほどになるのですが、不思議なもので何の用もなくても見てしまう時があるんですよね。「ツイ廃」と呼ばれる人たちが一定数いるのも納得できます(ブーメラン)。

しかし、なぜ私たちはこれほど頻繁にツイッターを開いてしまうのでしょうか。ツイッターの何が私たちを引き寄せているのでしょうか。

今回は、こんな問いから哲学を始めたいと思います。

ツイッターから始める哲学①:ツイッターの性質

さて、まずはツイッターの本質的な性質から確認しておきましょう。

ツイッターの性質は以下の3点にまとめられるかと思います。

  1. 個々人のツイートが集積され、リツイートやいいねによってツイートが連鎖していく
  2. ツイートから個人のあり方を見られている
  3. ①と②によって、無際限に人と人がつながる

ツイッターが実際に人と人とをつなげているかどうかについては意見がわかれるかもしれませんが、仮にツイートが単なるテクストに過ぎないならば、ツイッター上で議論が起きたり炎上したりすることはないでしょう。

たった140字のテクストを通じて、人と人とを情動的な次元でつなげるソーシャルネットワーキングサービス。それがツイッターなのです。

ツイッターから始める哲学②:ツイッターという空間

ここまでの議論では、ツイッターは無際限にツイートと人とをつなげるメディアであることを確認しました。ここからは、無数の呟きが集積されるツイッターという空間について考察を深めていきます。

ツイッターには、個々人のツイートやそれに対するリプライ・リツイート・いいねなどによって際限なく呟きが集積されていきます。そうなると、必然的に呟かれる内容にも際限がなくなります。膨大なツイートが集められたタイムラインを見て、私たちは「とりあえず、何を呟いてもいい」と感じるのです。実際に過激な内容を呟くかどうかは別問題ですが、普段言えないようなことでもツイッターなら言えるという感覚に、私たちは常に晒されているということは確かです。

ツイートが発信者自身を象徴している以上、どんなツイートでも許可されるということは、発信者自身がどんな人であってもツイッターでは(ひとまず)受け入れられるということになります。ツイートした後どんな反応が来るかはわかりませんが、ツイートする=自分の存在を主張すること自体は、とりあえず受け入れられています。

このようなツイッターという空間の性質は、「家」の性質に似ています。ここで言う「家」とは、アパート・マンション・一軒家など実際の家に限らず、当人が無条件に安らげる場所を指すことをご理解ください。例えば、実家の雰囲気が悪いが学校は楽しく感じるならば、その人にとっての「家」は学校になります。多くの人が、自分だけの「家」を持って日々の生活を営んでいるはずです。

おそらくツイッタラーにとっては、ツイッターこそが「家」になっています。とすれば、彼らがツイッターを開く理由は、私たちが「家」を持つ理由に近いのではないでしょうか。

ツイッターから始める哲学③:なぜツイッターを開くのか

では、私たちはなぜ「家」を持つようになるのでしょうか。「家」とは、その人が無条件に安らげる場所、つまり無条件にその人が受け入れられる場所のことでしたが、なぜ私たちは自分が無条件に受け入れられる場所を必要とするのでしょうか。

一番簡単な答えは「寂しいから」でしょうが、寂しさを感じない人間にこの理由は適用できません。「家」が人間に必要な理由はもっと根源的なところにあります。

「家」が人間にとって必要な最大の理由は、人間が自律した理性的存在となるためには、自分の価値観(立場)の根底をなす場所が必要であり、その場所こそが「家」だからです。

理性が問題なく働いている人であれば、自分の主張を述べるときにその根拠となる価値観や立場を話せるはずです。しかし、その価値観・立場を成り立たせている原始的な価値観・立場についてはどうでしょうか?

自分が寄って立つ価値観や立場を根源まで掘り下げていくと、必ず理由を説明できない「なんとなく」の地点にたどり着きます。そうです。私たちがどんな価値観・立場で行動するにせよ、その始まりはこの「なんとなく、受け入れられた場所」なのです。つまり、「家」なくして私たちは理性的な行動などできないのです。

以上から、「なぜ理由もないのにツイッターを開くのか」という最初の質問に対して、「私たちは理性的な行動をとる際に『家』を必要とするが、ツイッタラーにとっての『家』はツイッターだからだ」という答えを仮説として提示することができました。

おわりに:新しい「家」としてのツイッター

いかがでしたか?この記事では、「私たちはなぜ用もないのにツイッターを開くのか」という疑問から哲学を始めて、「私たちは本質的に『家』を必要とするからだ」という仮説にたどり着きました。

今回の議論は、

  1. ツイッターの性質を分析し、「家」との類似性を指摘する
  2. ツイッターが必要になる理由を、人が「家」を必要とする理由に置き換えて考える

という手順で進めました。比喩としてここでは「家」を使いましたが、あくまでこれは一例で、他にもいろいろな比喩が考えつくと思います。興味があればぜひ別の比喩を考えてみてください。

それでは皆さん、今日も張り切ってツイートしてください!

2件のコメント

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