フッサールの現象学についてわかりやすく〜エポケーから還元・反省まで〜

フッサールの現象学についてわかりやすく〜エポケーから還元・反省まで〜

はじめに:フッサール現象学についてわかりやすく!

フッサールといえば、現代の現象学の祖として有名ですよね。「事象そのものへ!」というフレーズは、哲学を学んだ人なら一度は聞いたことがあるでしょう。

しかし、「事象そのものって何?」「そもそも現象学って何?」と聞かれたら、答えるのは結構難しいのではないでしょうか。

そこでこの記事では、フッサールが興した現象学の思想について、初学者にもわかりやすく解説します。

基本的には言葉での解説になりますが、適宜この記事の内容をまとめたイラストを掲載するので、「文字読むのかったりいな」と思う方はイラストだけ見て頂いても構いません。

この記事を読んで、なんとなくでもフッサールの現象学の思想を理解して頂ければ幸いです。

フッサール現象学の思想の概要

まずは、フッサール現象学の思想の概要について解説していきましょう。最初にフッサール現象学の基本的な態度について説明し、その後に現象学で用いられる基本的な方法を解説します。

フッサール現象学の基本的態度

現象学は哲学の分野の一つなので、基本的な問題意識は哲学と一致しています。では、哲学における問題意識とは何でしょうか。

「哲学の問とは何か」という問について、近現代哲学の専門家である新田義弘は以下のように述べています。

「(哲学の問とは)つねに自己自身を徹底的に問いつめ、自己の根拠を自ら照明し、自己自身を究極的根拠から基礎付けていく問(である)」(『現象学とは何か』、講談社、1992年、19頁)

なるほど確かに、哲学の問は常に自分自身に対して向けられ、自分自身の根拠の明証を目的として立てられています。以下の記事で解説したソクラテスから始まって、レヴィナスやデリダなど20世紀の哲学者に至るまで、古今東西あらゆる哲学者が自分自身を問いに付してきました。

https://online-library.site/?p=1548

ここで問題になるのが、「じゃあどうやって自分自身を問い詰めるか?」ということです。

自分を自分で問い詰めるための方法論は何か。この方法論的問題に対して、19世紀末、一人の天才が解答を提出しました。その天才こそフッサールであり、彼の解答こそが現象学なのです。

現象学の基本的態度を一言でまとめると、「自然的態度から脱却しよう!」になります。

自然的態度とは、私たちの日常的な生活態度を指す言葉です。

例えば私たちは普段、何気なく冷蔵庫を開けて牛乳を飲み、何気なくスマホを開き、何気なく友達と会話していますよね。

この何気ない態度の裏には、自分自身と周りに存在するものに対する自明視が潜んでいます。そりゃそうですよね。私たちが何気なく周囲の人たちと関わるとき、「この人たちは存在しているのか?」という問は出てきません。仮に出てくるとすれば、それはもう「何気ない」やりとりではなくなっています。

この「何気ない」自然的態度のままでは、「自己自身を徹底的に問い詰める」ことはできません。ゆえに哲学者は、自分自身・周りに存在するものへの自明視を止めて、自然的態度から脱却しなければならない__これが、現象学における基本的な態度になります。

フッサール現象学における理想

哲学者は、自己自身への徹底的審問のために自然的態度から脱却しなければならない。となると、次の問題は「自然的態度から脱却した状態って、一体どういう状態?」になります。現状が自然的態度であるとすれば、理想となるのはどんな状態なのか。

現象学の理想像についてフッサールは、対象の知覚方法における自然的態度と理想的態度(自然的態度から脱却した状態)の差異から論じています。詳細については後で触れるので、まずは概要だけ掴んでおきましょう。

自然的態度において私たちは、対象に対して無意識にバイアスをかけて知覚しています

例えばスマホを操作するとき、私たちは自分にとって最も馴染み深い方法で操作しているはずです。その結果、他のいろいろな操作方法を蔑ろにしてしまっています。

従って私たちは、自然的態度をとっている場合、その対象(例えばスマホ)が持っている知覚可能性の中のほんの一部しか知覚できていないことになります。私たちにとってのスマホは、スマホという対象が持っている可能性の中の一部に過ぎないのです。

となると・・・・・・そう、お察しの通り、自然的態度から脱却した状態とは、スマホが持っている知覚可能性の全てを捉えられる状態になります。

自然的態度におけるバイアスを全て取り払い、対象の持っている可能性の全てをありのまま捉える。これが「事象そのものへ!」というフレーズの意味であり、現象学が理想とする状態なのです。

フッサール『イデーン』における現象学

現象学の基本的な理念がわかったところで、今度は現象学の具体的な方法を見ていきましょう。この記事では、主にフッサールの主著の一つ『イデーン』で記述されている現象学の方法について解説します。

その他の著作における現象学については以下の記事で解説しているので、適宜参照してみてくださいね。

フッサール『イデーン』における現象学①:エポケー

『イデーン』における現象学は、主に「エポケー」「還元」「反省」の3つのステップに分けられます。順を追って解説していきましょう。まずはエポケーから。

上でも説明しましたが、私たちは普段「自然的態度」で事物・人に接しています。

身の回りにある物も人も、当たり前に存在している。当たり前に存在している事物とともに、何気なく生活する・・・・・・。

普通に生活する分にはこの自然的態度で問題ないのですが、自分自身を徹底的に審問する哲学者は、自然的態度から一歩身を引かなければなりません。

私たちが当たり前に接している事物や人の存在、自分と事物・人との関係、そして自分自身。これら全てに対する自明視を一旦やめて、哲学者は真なる実在を探求する義務があります。

自然的態度から一歩身を引くこの所作を、フッサールは「エポケー」(遮断・停止)と呼びました。世界や自分の存在を一旦「遮断」する、という意味です。

私の目の前に机があるなら、「机」という存在を自明視せず、ひとまず「私が机を見ている」という認識にとどめる。その上で、「机」という存在について考察する、という流れになります。

自然的態度からエポケーへ

このエポケーが現象学的考察の準備となり、次の「還元」から本格的な考察が始まります。

フッサール『イデーン』における現象学②:還元

エポケーによって、「机」や「私」の存在の確証が一旦保留されたとしましょう。次に問題になるのは、「じゃあ存在が確証できるものは何か?」になります。

この問題——真に確証される存在についての問題——について考えるために、フッサールは私たちの知覚を「超越的知覚」と「内在的知覚」に分けました。

「超越的」と聞くとなんだか難しそうですが、要するに物に対する知覚のことです。

サイコロを例に考えてみましょう。今私たちの目の前に、「3」の目が正面で「1」の目が上面になっているサイコロがあるとします。

この場合、上面の「1」と側面の「2」・「5」はかろうじて視野に入りますが、背面の「4」と底面の「6」は全く見えないはずです。

というわけで、今度はこのサイコロを逆から見てみましょう。

サイコロの「4」が正面になるように視点を移動しました。この場合、上面が「1」、側面が「2」・「5」で、背面が「3」、底面が「6」になりますね。

先程は全く見えていなかった「4」が完全に見えるようになった一方で、「3」が全く見えなくなりました。

このように、同一のサイコロでも視点を変えると見え方(現象)は全く異なってきます。にもかかわらず、私たちはこのサイコロを同じ一つのサイコロだと認識できる。それは、私たちの知覚が、サイコロに対する多様な見え方(現象)を「サイコロの目の見え方」として統一することに成功しているからです。この統一の働きを担う知覚を「超越的知覚」と呼びます。

視点によって見え方が変わる対象を、一つの「物」として捉えるのが超越的知覚の働きでした。これに対して、「超越的知覚が『物』を捉える」という体験そのものを知覚するのが「内在的知覚」です。

超越的知覚は、捉える物によって変化します。しかし、「超越的知覚が物を捉えている」という体験(内在的知覚)の本質は物によらず普遍的である__とフッサールは考えました。対象が変わればその対象に対する知覚(「リンゴだ」とか「ミカンだ」とか)は変化しますが、知覚の体験の仕組み自体は変化しない(リンゴにせよミカンにせよ「Xを見ている」という体験になっている)からです。

超越的知覚は変化するが、内在的知覚は普遍的である。ゆえに、内在的知覚は絶対的に存在する(個々の物に依存せず普遍的に存在する)。

自然的態度から脱却して(エポケーして)、絶対的に存在する内在的知覚を見出す。これが「還元」と呼ばれる行為の本質です。

内在的知覚の絶対性
超越的知覚と内在的知覚の違い

フッサール『イデーン』における現象学③:反省

ここまで、『イデーン』の現象学における「エポケー」と「還元」について解説してきました。

最後に「反省」という行為について簡単に紹介しておきます。

「反省」とは、一言でいうと内在的知覚の体験をメタ視点から分析し、その構造を捉える行為です。

内在的知覚の構造は「志向的関係」と呼ばれ、大きく「ノエシス」(知覚体験)・「ノエマ」(知覚対象)という2つの要素から説明されます。

私たちの知覚は、いかなる場合であれ何らかの対象に向かっていますが、同じ対象に向かう場合でもその知覚の様相は見方によって異なります。サイコロを見る場合だったら、「1」の面が正面に来るか「6」の面が正面に来るかによって、見え方(知覚の様相)は全く異なりますよね。

このような、様々に異なる知覚体験について分析する行為を「ノエシス的反省」と言います。

多様なノエシス(知覚体験)は、その体験が1つの対象に向かっている限り、その対象を基点として体系化することができます。サイコロの「1」の面が正面になるように置くとき、私たちには「6」が見えない。反対に、「6」の面が正面になるように置くと、今度は「1」が見えなくなる、など。

多様なノエシスを、対象を基点として体系化する行為を「ノエマ的反省」と言います。ノエシス的反省からノエマ的反省に向かう__多様な知覚体験を1つの対象の元にまとめる__ことで、私たちは対象が持っている知覚可能性の総体を把握できるようになります。

ノエシス的反省とノエマ的反省の違い

自然的態度をエポケーによって脱却し、内在的知覚を還元によって発見し、内在的知覚の志向的関係を反省によって見出す。この3つのステップによって、「事象そのもの」へ至る現象学の思考は完成する__フッサールが『イデーン』で描いた現象学像は、その後の『内在時間意識の現象学』や『デカルト的省察』の基礎となり、現在まで続く現象学思想の根源として重要な働きを担うようになります。細かい部分まで詳細に理解するのは難しいですが、思想の骨格だけでもしっかり理解しておきましょう。

おわりに:フッサールの現象学についてのまとめ

いかがでしたか?

この記事では、現象学の基本的な態度の説明から入って、「エポケー」・「還元」・「反省」という『イデーン』の現象学における3つのステップを解説してきました。

ここで紹介した現象学の思想は、フッサールから現代まで続く現象学のほんの一部に過ぎません。

フッサール、ハイデガー、サルトル、メルロ=ポンティ、レヴィナス、ミシェル=アンリ・・・・・・日本語の資料で読める部分だけでも、現象学の書籍は枚挙にいとまがありません。以下に、日本語で読める現象学関連のオススメ書籍リストを掲載しておくので、興味がある方はぜひご覧ください。

それでは!!

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