『実存から実存者へ』の基本情報

書籍名:実存から実存者へ
著者名:エマニュエル=レヴィナス
翻訳者名:細田修
発行:筑摩書房
発行年:2005年

『実存から実存者へ』のキーワード

カテゴリ:哲学、存在論
キーワード:存在者と存在「ここ=現在」世界「ある」

『実存から実存者へ』のレビュー:「ある」への問い

時代は第二次世界大戦中のフランス。ユダヤ人としてナチスに拘束されながら、卓越した語学能力を買われ、通訳士として虐殺を免れた思想家がいた。

名をエマニュエル=レヴィナス。彼は敬虔なユダヤ教徒であり、戦前はフッサールやハイデガーの思想をフランスに輸入した有能な哲学者でもあった。

だが、エリートだった彼の生活は、ナチスの大虐殺によって踏みにじられた。レヴィナスは、妻子を除く親族のほぼ全員をナチスによって殺されてしまったのである。

親族の亡骸。変わり果てたパリ。虐殺された無数の同胞の霊。それらを前にして、思想家のレヴィナスは考えた。

「ある」とは何か。

こんな世の中で、一体何が「ある」と言えるのか。

そもそも、「ある」者はなぜ「ある」のか。

本書には、戦禍の中でのレヴィナスの切実な思索が産んだ存在への問いが詰め込まれている。

「ある」とは何か。私たちはなぜ「ある」のか。災害やテロで不条理に人の命が奪われ続けるこの時代に、改めて思考したい存在の根源を少しだけ覗いてみてはいかがだろうか。

『実存から実存者へ』の要旨・要約

「ここ=現在」の成就、実存者の出現

私たちの疲労は、何かの行為を遂行しようとした瞬間に生じている。

「私が〜する」という行為の根源には、「私が、私である」という自己確認がある。したがって、行為遂行中の疲労の根源には、この「私が、私である」という事実の引き受けが横たわっている。

「私が、私である」という事実の引き受けは、言い換えれば「現在の存在者(存在する者自体)である私が、現在の存在である私自身を引き受ける」ということである。

実は、このような「現在が現在を引き受けること」という行為の中に、すでに一つの「ずれ」が発生している。

自らの存在を引き受ける私の現在と、引き受けられる私自身の存在の現在との間に、主従関係という距離が開かれているのである。

この「ずれ」を抱え込むことによって、「ここ=現在」が成就し、実存者(存在する<私>)が出現する。

だが、「ここ」は、一体「どこ」にあるのか?

「世界」と「ある」

私たちが生きている「世界」は欲望によって支えられている

私たちが身体的存在である以上、常に私たちは何らかの欠落を有している。私たちの活動は、究極的にはこの欠落を埋めようとする欲望を満たすための運動なのである。

実存者が定位される世界とは、このような欲望に支えられた世界である。

だが、私たちの欲望を満たしてくれる対象はいつも存在するとは限らない。私たちの身の回りの事物は、突然フッと消えてしまうものである。

では、私たちの周囲の事物が全て消えてしまったらどうなるのか?

事物が全て消失すれば、ただ「ない」という事実だけが「ある」ことになる。そこに、自我が隠れる場所はない。自我を含めたこの世のすべてはその「ある」に飲み込まれることになる。

したがって、自我が他から分離されて定位されるためには、差し当たってはこの「ある」から分離される必要がある。

「ある」からの分離、「ここ」の成就

「ある」が不眠なる存在(「ある」はどれだけ否定しても「ある」から「眠らない存在」と言える)だとすれば、意識を持つことは眠りであり、休息である。

休息するとは、何らかの土台の上に安んずることである。場所がなければ、眠るという行為を遂行することはできない。

身体が、休息の土台となり、定位になる。私が身体である(何かを知覚したり、何かを食べたりできる)ことによって、意識がその場所の上に成り立つことができるからである。

したがって、私が身体であることが、そのまま現在による現在の引き受け=実存者による実存の引き受け=「ここ」の成就になる。

『実存から実存者へ』への感想:時間を開く「他者」

本書『実存から実存者へ』ではわずか数ページしか触れられていないが、本書と同時期に刊行された『時間と他なるもの』や、1961年に発表されレヴィナスを世界的な思想家にした『全体性と無限』で中心的に扱われる問題として、「他者」の問題がある。

レヴィナスにとって「他者」の問題は、「時間」「エロス」という2つの問題と密接に関わっている。そこで以下では、本書の文脈をもう一度整理しながら、時間論とエロス論に関連する他者の問題について概観することにしよう。

「現在」と「時間」

本書『実存から実存者へ』では、一貫して「現在」という瞬間が問題になっていた。

身体としての<私>が、自分の行為の中に疲労を感じる。そのとき<私>は自らの実存に対して疲労を感じている。

この疲労の経験において、<私>が自らの存在を引き受ける「点・場所」としての「現在」が現れている。「<私>が存在する」という事実によって、その存在の場所となる「ここ」・「現在」が確証されるのである。

だが、この「<私>が存在する」という事実によって明らかになるのは、「現在」という点にすぎない。私たちが生きている「時間」は、この事実の中にはまだ現れていない。

自我が自分の存在を引き受けることによって「現在」が生まれるならば、「時間」は一体何によって生まれるのだろうか?

「他者」と「エロス」

この問題を考えるためには、自我とは異なる存在である「他者」について考える必要がある。自我の存在から導出できるのは「現在」だけなのだから、「時間」という広がりを考えるためには自我以外の存在が必要になるのである。

ただし、ここで言うところの「他者」は、普通に存在している具体的な「他人」とは区別される特殊な存在である。

というのも、普通の「他人」は自我にとっては表象(像、イメージ)として現れている。表象の作用が自我に帰属するならば、その「他人」は結局自我にとっての内部にあることになってしまう。

「現在」から区別される「時間」について考えるために必要なのは「自我にとって外部にある他者」なのだから、その他者は表象不可能な他者でなければならない。だが、表象不可能であるということは、その他者は自我にとって現れてこないということである。

「現れてこない他者が現れる」という現象がなければ、「自我にとって外部にある他者」を考えることはできないのだが、その現象を引きずり出すのが「エロス」であるとレヴィナスは主張する。

エロス的な関係において私たちは、不在な存在に対して欲望する。性的な欲望の対象とは、いつも理想的な(非現実な)人間である。逆に、今存在しているものに対して、人はそれほど激しい欲望を抱かないものである。

つまり、エロス的な関係において欲望される存在は、常に不在であることによって現れている。このような存在こそ、「自我にとって外部にある他者」であり、自我に「時間」の可能性を与える存在である、とレヴィナスは考えている。

不在によって現れる他者、エロス、時間。

これらの問題について詳しく考えたい人は、ぜひ『時間と他者』や『全体性と無限』を精読していただきたい。きっと新たな発見があるはずである。

『実存から実存者へ』と関連の深い書籍

『実存から実存者へ』と特に関連の深い書籍

  • 内田樹著『レヴィナスと愛の現象学』、文芸春秋、2011年
  • 熊野純彦著『レヴィナス—移ろいゆくものへの視線』、岩波書店、2017年
  • レヴィナス著・内田樹訳『困難な自由—ユダヤ教についての試論』、国文社、2008年
  • レヴィナス著・熊野純彦訳『全体性と無限』、岩波書店、2005-2006年
  • レヴィナス著・合田正人訳『存在の彼方へ』、講談社、1999年
  • レヴィナス著・原田佳彦訳『時間と他者』、法政大学出版局、2012年

『実存から実存者へ』と関連の深い「存在論」の書籍

  • ハイデガー著・細谷貞雄訳『存在と時間』、岩波書店、1994年
  • フッサール著・浜渦辰二訳『デカルト的省察』、岩波書店、2001年

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