不在の現在へ向けて|『声と現象(デリダ)』要旨・要約、感想とレビュー

不在の現在へ向けて|『声と現象(デリダ)』要旨・要約、感想とレビュー

『声と現象』の基本情報

書籍名:声と現象
著者名:ジャック=デリダ
翻訳者名:林好雄
発行:筑摩書房
発行年:2005年

『声と現象』のキーワード

カテゴリ:哲学、現象学
キーワード:記号、指標作用、表現、現在、代補、痕跡、差延

『声と現象』のレビュー

この記事を読んでいる人で、言葉を使わずに生活している人はいないだろう。

私たちにとって言葉とは、あって当たり前のものであり、言葉による意思疎通なしには社会は成り立たない。

だが、意思疎通を成立させている「言葉の意味」とは、結局のところ何なのだろうか。

物理的な視点に立てば、紙に印刷された言葉は単なるインクのシミでしかない。そのインクのシミが、私たちの意識に対しては何らかの意味を持った存在として現れている。この現象は、一体どのようにして生じているのか。

本書の著者ジャック=デリダは、フッサールの『論理学研究』の解釈を通して、このような言葉の意味の根源にある問題を問い直した。

「痕跡」「差延」「代補」……デリダの提唱した「操作子」(概念でも言葉でもない、デリダの議論の道具)は、言葉の意味の現前を、状態ではなく一つの運動として照射してくれる。

フッサールを読むデリダの視線から言語の意味を照らし出すとき、そこから果てしない反復の運動が見えてくる————本書は、現代の文学・政治・哲学に関心がある学生必携の一冊である。

『声と現象』の要旨・要約

フッサールによる、言語記号の純粋な意味の取り出し

本書の目的は、言語的な「記号」から実質的に意味を持たない部分を除去し、純粋な意味だけを取り出すことにある。そのために、フッサールは以下のような手順をとっている(と、デリダは解釈している)。

まず、「記号」を「指標作用」から還元すると、「表現」が残る。

記号の指標作用とは、記号Aから記号Bへ必然性のない言い換えを生じさせる作用のことである。

例えば、「明日は早く起きる」という言語記号が、当人の意識の中では「だから早く起こしてくれ、お母さん」という言語記号を「指し示している」としても、両者の記号の間に必然的な結びつきはない。このような「指し示し」が「指標作用」である。

次に、「表現」から「態度」が除去される。

「態度」とは、具体的には身振り手振りのことを指す。指標作用と同様、こちらも明確な(必然的な)意味を持たないので、「記号」から除去される。

「態度」が除去された「表現」から、さらに「伝達作用」と「表明=告知作用」が除去される。

記号の意味とは、根源的には自分自身にのみ現れるものであるので、他者への意味作用は不純物として取り除かれねばならないのである。

こうして、純粋な記号を精製することができた。だが、この純粋な記号が、「今、ここ」という点において意味を持つとすると、「今、ここ」は果たして「純粋」であると言えるのだろうか。

「現在」の不確かさと、代補・差延・痕跡の運動

意味の持つ場所が明確に定まっていなければ、その意味は不明瞭にならざるを得ない。記号から純粋な意味を取り出そうとするフッサールは、「今、ここ」を純粋な「現在」にすべく、「現在」の中に保持されている「過去」と「未来」の除去に挑んだ。

しかしその結果残るのは意味を失ってしまった「現在」だけであり、意味そのものは「現在」の基盤になる「原―現在」の次元から発生することになり、論理的な困難が発生する(この論理的困難の詳細については「感想」を参照のこと)。

「今、ここ」から真なる現在を抜き出そうとする運動は、裏を返せば、常に現在そのものが不在であり、現在の代わりになるもの(デリダはそれを「代補」と呼ぶ)が現在の位置にあるようになっているということである。

現在の不在の痕跡から、絶えず代補が発生し、現在そのものの確証は常に先送りされていく(デリダはこの現象を「差延」と呼ぶ)。記号の純粋な意味を取り出そうとするならば、この代補を中心とする無限の運動を精査するべきであるとデリダは主張した。

『声と現象』への感想

本書の内容に合わせて、あえて副題をつけるとしたら、「フッサールを読むデリダ」になるだろう。

というのも、本書の結論は、フッサールが『論理学研究』の中で捉えた現象学の根本的困難に対する、デリダなりの応答になっているからである。

現象学の根本的な困難とは、簡単に説明すると以下のようになる。

記号の純粋な意味を取り出すために、不必要な要素を順番に除去していくと、最終的に意味が現前する「現在」を「過去」・「未来」から独立させる必要がある。

しかし、「過去」や「未来」から「現在」はそれ自体では実質的に無意味なものになる。「今、ここ」=「現在」とは、意識に対して初めから与えられているものではなく、「今」過ぎ去ったばかりの過去と、これから生じる未来によって構成されているからである。

例えば、「今、ここに私がいる」という「現在」の直観は、「たった今、私はここにいた」という事実と「それゆえに、私はここにいることになるだろう」という予測をもとに構成されている。このように、「現在」はそれだけで独立しているのではなく、その直前と直後をすでに含み込んでいるのである。

純化された「現在」に意味を与えるためには、「現在」の下部に位置する「原―現在」の地平を想定し、「現在」の意味をその地平から取り出す必要があるわけだが、この「原―現在」の地平は「現在」があって初めて意味をなすものになる。そうすると、論理的には基盤となるはずの「原―現在」が「現在」に依拠することになり、主従関係が逆転する……。

このような現象学の論理的困難を、デリダはあえて肯定的に捉えた。「現在」自体の純粋性は永遠に確保できず、他の記号によってその「現在」が置き換えられ続けることが、記号の意味の本質的な性格なのだ、と。

記号の本質はこの置き換え(「代補」)の運動にあるのだから、この運動への着目が最も根源的な問題になるはずだ———フッサールが抱えた問題に対して、デリダはこのように応答したのである。

唯一の実体があるのではなく、全ての記号は何かの代理であり、何かの反復である。「真/偽」の対立を無効化するデリダの記号論は、どことなくニヒルでアナーキーである。だからこそ、多くの人がその魅力に呑み込まれるのかもしれない。

『声と現象』と関連の深い書籍

『声と現象』と特に関連の深い書籍

  • フッサール著:立松弘孝ほか訳『論理学研究Ⅰ〜Ⅳ』、みすず書房、2015年
  • フッサール著:谷徹訳『内的時間意識の現象学』、筑摩書房、2016年
  • フッサール著:長谷川宏訳『現象学の理念』、作品社、1979年
  • フッサール著:浜渦辰二訳『デカルト的省察』、岩波書店、2001年
  • フッサール著:浜渦辰二・山口一郎訳『間主観性の現象学 その方法Ⅰ〜Ⅲ』、筑摩書房、2012-2015年
  • フッサール著:渡辺二郎・立松弘孝ほか訳『イデーンⅠ〜Ⅲ』、みすず書房、1979-2010年

『声と現象』と関連の深い「現象学」の書籍

  • ハイデガー著:木田元他2人訳『現象学の根本問題』、作品社、2010年
  • ハイデガー著:細谷貞雄訳『存在と時間 上・下』、筑摩書房、1994年
  • ハイデガー著:細谷貞雄他2人訳『ニーチェ』1〜3、平凡社、1997年

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